いそべさとしのホームページ

過去の2日に1回日記(旧・お知らせ)保管庫(2010年7月〜9月)


←2010年4月〜6月へ
2日へ1回日記目次へ
2010年10月〜12月へ→


紙切れ1枚の思いと重み
 来週の日曜日は参議院議員選挙…なのですが、職場旅行で和歌山へ。夜に行くのも忘れそうだし、間に合わないのも嫌だし…ということで、今日、期日前投票に行ってきました。私は仕事柄もあり、これまで選挙にはほぼ全て行っているのです(転居で行けなかったのが1回あっただけ)。
 昔、日曜日に魚屋バイトに入っていたことから、期日前投票(むかしは不在者投票)も慣れたものです。不在者投票時代は、詳細な理由書と押印が必要で、更に投票用紙1枚1枚を特別な封筒に入れて封をしなければならず、多少大変だったのですが、近年は普通に投票所に行くのとほとんど変わらない手続きでよくなりました。
 さて、神戸市では選挙をすると「投票済証」というものをくれます。実は、これまで私が選挙をしてきた街(つくば市、神戸市、豊岡市、文京区、加古川市)の中でこんなものをくれるのは神戸市だけで、最初は単に「面白いなー」と思うぐらいでした。ところが、この投票済証、発行すべきか否かについては結構議論がある様子。そして発行状況も、愛知県は百パーセント発行だけど、全国平均は4割程度で、青森県ではほとんどないとか、かなりばらばらです。
 神戸市の市長への手紙への回答によると『本市の場合、長い歴史があり、古くは公民権行使の誇りとして玄関等に貼ったり、貼っていない家にはご近所の方が投票参加を呼びかけたという啓発的な意味合いがあった』ものの、『時代とともにそうした意味が薄れているのも事実』としたうえで、『投票参加を進めるために投票済証を利用しようといった試みがある』とも触れています。確かに民主主義の最も重要な手続きである選挙への参加を証明するというのは悪いことではありません。ただ、その一方で、これを発行するために必要となる余計な経費や手間や人出を考えると、果たして続けるべきなのかという気もします。私自身は正直、結論が出ていません。ただ、歴史的経緯や投票率アップの観点、そして選挙の儀式性の確保などから、どちらかと言えば残す方に賛成です。
 投票所で配られる紙切れ1枚にも様々な思いとお金と事情と歴史が詰まっています。当然、その前に書く投票用紙にはもっと重いものが詰まっているはず。7月11日の投票日、あるいはその前に、ぜひ投票に行きましょう!(2010/7/1)

演劇の分類について
 今年の舞台技術学校は様々な経歴の人がいるのですが、同じ演劇経験と言っても、どこでやってきたかによってかなり違うようです。たとえば私のような市民演劇出身者は、演技の経験自体は薄いものの大きなホールには慣れており、ずっと学校の教室や講堂ででやってきた人とはかなり違います。どこかにいい演劇の分類がないかなと思っていたところ、あるQ&Aにありました。さすが舞台監督さん、結構バランスがとれているのではないでしょうか。
 これをもとに、多少、改変してみました。これで日本の演劇(ミュージカル&ストレートプレイ)の世界はある程度網羅できるの…かな。
 伝統芸能系は範囲外でいいでしょう。おやこ劇場(子ども劇場)や勤労者の演劇活動も気になりましたが、大半は鑑賞主体。社会人劇団も、多くは何らかの学校(ピッコロなども含む)由来だったりするので「小劇場系」に分類(「学生演劇から発展系」の方が正確かも。)。ピッコロ劇団のような公立劇団はレアケースですが、あえて言えば「新劇」で。大学演劇・高校演劇・中学演劇は、その差を明確にできるほどそれぞれの世界を知らないので、申し訳ないですが一つに。四季と宝塚は、知名度・存在感からも別立てかなと。Wikipediaでもサブカテゴリだし。
 演劇が好き、あるいは演劇をやってきたと言っても果たしてどのセクションなのか。「分類は学問の第一歩」という言葉を聞いたことがある気がしますが、時にはそんな目で見てみるのもまた一興かもしれませんね。(2010/7/3)
※大衆演劇は、マイミクの「こうさぎ父さん」さんの指摘で付け加えました。確かに、しっかりとした存在感ある別ジャンルです。どうもありがとう。(7/5)

忙しいんかなあ。暇なんかなあ。
 今日、朝起きると「本日限定 関空・台北便往復4千円 シンガポール往復8千円」のメールが。正直、神戸から関空に往復するよりも安い…。あんまりにも安いのでつい申し込んでしまおうかと思ったのですが、これから意外と毎月予定が入っているので涙をのんで(笑)見送りました。
 今年は去年に比べると圧倒的に残業時間も少なく、学校も2年目ということで慣れており、客観的にはそれほどしんどくないはず。ただ、昔からの癖なのか、なんとなく心のどこかで「忙しがって」います。確かに、年間スケジュールは、7月に仕事の山場、8月に友人の劇団のお手伝い+三田の 市民演劇、9月・10月中間発表対応、11月に台北花博、12月〜1月には初の海外年越し、1月〜2月は卒公対応、3月はまた仕事が繁忙期と、大半は趣味のプライベートな事柄なのですが、予定が目白押し。それに追われている気もしています。
 これまで私がやってきた仕事というのは、実は年に1回のイベント(予算を含む)対応みたいなものばかりでした。そのため、日常(勤務時間内)がべたーっと忙しい種類の仕事に慣れていないのかもしれません。
 「忙しい」と自分で思ってしまっていると、逆に大切なものを見逃してしまったり、遠回りをしてさらに時間を費やしてしまったりしがち。「心をうしなう」のが良いはずがありません。忙しいと思わないように一つ一つのことにメリハリをつけて取り組んでいきたいと小さく決意した、忙しいにも関わらず4時間ちかくも無意味なネットサーフィンをした後の夜のなのでした…。(2010/7/5)

TANABATAの下でもう一度逢えますように
 今日は7月7日、七夕の日。七夕と言うと、人それぞれ思い出すものがあるのでしょうが、私はどうしても吹奏楽の"「The Seventh Night of July-TANABATA-」を思い出してしまいます。ほぼ同世代の作曲家が高校時代に書いた曲であるということもあり、この曲には吹奏楽の演奏者を喜ばせるさまざまな仕掛けがあります。アンサンブル好きなサックスの見せ場やかわいらしいグロッケン、流れ星風のピッコロ、6:30からの裏旋律「アルヴァマー序曲」、そしてアルヴァマー序曲練習番号21番を思い起こさせる最後の木管の早いパッセージと、当時の自分たちが喜ぶであろう見せ場が盛りだくさんなのです。
 吹奏楽の曲というのは、観賞用と言うよりもむしろ演奏用なのかもしれません。あきらかに「吹いたら楽しい曲」と「聞いていて楽しい曲」は違います。昔はそれを問題に感じていたのですが、今となると、吹奏楽曲を聴いていると、ホルンに下手ながらも熱中していた当時のことを思い出せて、曲が懐かしく暖かく感じます。あのころ一緒に演奏していた人々は今どこで何をしているのかな、とつい昔のことを思い出したり、昔のカセットやCDを聞いてしまうのです。
 一緒に吹奏楽をやっていた人の大半は、私と同じく、もう吹奏楽をやめていることでしょう。家事や子育て、親の介護の日々を送っている人や、毎日毎日の締め切りだのノルマだのに追われている人もいるかもしれません。それでも、「今日は七夕だなあ。そういえばTANABATAという吹奏楽の曲があったなあ。当時は楽器を頑張っていて、大変だけどみんなで音楽を作るのは楽しかったなあ」とちょっとでも思いだせたとしたら、それはとても素敵なことのような気がするのです。
 今日の神戸は曇り空で、天の川もおりひめもひこぼしも見えなかったけど、雲の向こうには星空が広がっていて、みんなその下で生きている。中学・高校・大学生時代に吹奏楽を一緒に作ってきた人も、大学院時代・そして今、演劇を一緒に作っている人も。お互い、しっかりと自分の人生を歩んでいけますように。そして、いつの日か、TANABATAの下でもう一度逢えますように。(2010/7/7)

Excelちからわざ
 今日は、会議や出張でばたばたしている中でぽかっと空いたエアポケットのような日。休んでもいいけど、雨が降っているし、演劇学校の実習はほとんど仕込みもないしなぁーと、とちょっとうだうだしつつ、職場へ通勤。と、列車の中で突然、来週の会議で使うエクセルの表のアイデアが浮かんでしまいました。
 来週の会議ではたくさんのものを評価し、それをリアルタイムに順位に並べます。それをプロジェクターに映し出して討議するため、とにかく時間重視の作業なのです。これまでは手動でやっていたようなのですが、バタバタした中では間違えやすいし、そもそもめんどくさい。ということで、データ入力をすると、別のシートでは自動的に順位順に並んでしまうエクセル表を作ることにしたのです。VLOOKUP関数を使う方法なのですが、いろんなホームページの記述などを参考にしながら、なんとか2時間ほどかかって完成。時間に余裕があったからこそできた作業といえます。ただ、こつこつと試行錯誤で複雑なエクセル表を作っていくのは、時間があるときにはとても楽しいです。
 わたしはホームページもhtml手打ち、スタイルシートも使わずにtableで記載しています。一つ覚えと言えばそうなのですが、自分自身が十分に理解していない方法で作業を進めていると、いざというときになかなかリカバリーが効かないんですよね。そして、単純な方法で作っているほうが、逆に様々な事態に対処しやすいもの(特に他人の作ったファイルをいじる場合は)。とそんなことを考えつつ、ちょっと時代から取り残された感もある今日この頃なのでありました。(2010/7/9)

一旅行は百職務にしかず
 土日は職場旅行で、高野山&湯峰温泉、熊野古道へ。土曜日はまあまあのお天気だったものの、日曜日はしっかりとした雨模様。その中を、びしょぬれになりながらも、有志一同で伏拝王子〜熊野本宮大社の約4キロを歩きました。
 久しぶりの高野山も、雨の熊野古道も良かったのですが、やはり職場旅行の醍醐味は、普段の職場で見ているのとはかなり違う姿が見れること。特に私が今いる職場は、日常の仕事ではそれほどべたべたしないお付き合いのため、こういう機会でもないと違う係の人の本当の姿がなかなか分かりません。数か月一緒に仕事をしているよりも、たった2日でも一緒に旅行に行き、さりげないやり取りや、あるいは夜に行われる当課伝統の「大富豪大会」でのストラテジーや反応などを見ていた方が、よっぽどその人のことを理解できそうです。このページを見ている人が職場内にもいるそうなので具体的な言及はあえて避けますが、今回も同じ職場の人々の様々な側面について、新たな発見ができました。
 一時はほぼ壊滅状態だった職場旅行や職場運動会などの行事が、民間でも近年復活の傾向にあるとか。日本的な職場の良さは、使用者・雇用者ともに単に仕事と割り切らない(割り切れない)部分にあるのかなとも思います。若いころはそれが嫌だったのですが、最近はそれが心地よかったり。やはり年を食ってきたのかなあと思わなくもない、今日この頃なのです。(2010/7/11)
[写真絵解き:1枚目高野山金剛峯寺、2枚目つぼ湯、3枚目熊野古道。]

雑誌付き付録
 今日、バスの時間待ちで久しぶりに本屋さんへ。と、本屋さんの店頭に数多く並んでいるのがカラフルなバック。それぞれみんな、特定の女性誌の付録でした。怪しまれない程度に触ってみたりしましたが、結構立派。そして価格も500円とか800円とかで、なかなかお得感があるようです。女性誌に限らず男性誌でもいくつか付録付きのものを見かけました。帰って来てみてからGoogleを「雑誌」と引いてみると、自動表示で2番目に来るのが「雑誌 付録」。かなりのトレンドのようです。
 ネット利用が花盛りの今日、雑誌の情報というのは出るころには陳腐化しています。また、雑誌は本(冊子)に比べて、保存性にも携帯性にも劣ります。さらに、雑誌の広告収入も激減しているようで、雑誌はバタバタと休刊に追い込まれています。昔よく買っていたAB-Roadなる海外旅行の雑誌も、航空券やツアーをネットで検索・購入する人が大部分になってしまったため広告出稿量が激減し、あえなく休刊となってしまいました。この雑誌冬の時代の打開策として、著名ブランドなどと組んで付録を作るという戦略に打って出たのでしょう。
 振り返ってみると、街の本屋さん自体も、都心の巨大書店やあるいはネット通販との競合で厳しい立場に置かれています。その打開策として「付録付き雑誌」というのは、大いにありかなと。付録は実際に現物を見てから購入したいので、ネット通販よりも店舗実売が有利。気軽に買える割に重いので、家に近い場所で購入する可能性が高い。店頭で発見して「お得〜」と衝動買いしてくれる可能性も高い。厚みがあるのでコンビニ販売には向かない。付録付き雑誌は街の中小の本屋さんに適した商品であるような気もするのです。
 印刷媒体は冬の時代ですが、決してなくなることはないでしょう。近隣の美容室などとタイアップして制作している「○○美少女図鑑」のように、きっとどこかには芽の出るビジネスモデルが転がっているはず。それを何とか探し出して印刷物の火を守ってほしい。さらに、より楽しくワクワク・ドキドキする活字(印刷物)文化を作っていってほしいと、一活字中毒者としては願っているのです。(2010/7/13)

ソルト&レモンと透けるガールズ水着
 最近、大々的に広告を打っているマクドナルドの「チキンバーガー ソルト&レモン」。鳥肉好き、塩味好き、酸っぱいのも好きな私としては、これは見逃せないとチェックしておりました。昨日ようやく、学校帰りに阪急塚口駅北口のマックで初体験。…ところが、あまりにも期待が大きかったためか、正直いまいちだったのです。鳥肉はジューシーなもも肉を薄くカリッと揚げた逸品、パンもしっかりと優しい味がするのですが、それをつなぐレタスとドレッシングとチーズがなんとも残念。とくにドレッシングの油っぽさと、レタスのまとまりのなさは頭の中に???が一杯。これらを抜いたほうが明らかにおいしい気が。ネットで感想を調べてみても、ドレッシングの油っぽさが「ソルト&レモン」という語感と違うなどという意見が多く、高価格の割には「ちょっと残念」という評価のようです。
 仕事柄、研究開発に携わる方のお話を聞くことも多いのですが、新製品が市場に出るまでには、数多くの候補の中から厳しい厳しいセレクションがあるはず。なのに、なぜこういう1回食べただけの人が気になるようなことが問題とならなかったのでしょうか。特定の分野・特定の物事だけを突き詰めていって、それに囚われてしまうと、一般人ならすぐ気付くようなことが逆に見えなくなるのかもしれません。最近「水に入ると透けてしまうガールズ水着」が話題になっていますが、これも水着の基本的な機能を見逃してしまった結果という気がいたします。
 振り返ってみると、私のいる公務員業界というのは、民間企業などと違って市場の評価を受けないため、もっと色んな大切な事を見逃してしまっている気も。時にはそこから離れて、違った視点から物事を眺めてみることも大切なんだなあと思い知らされた、最近の出来事2つでした。(2010/7/15)

田園都市に夏が来た
 近年ここまではっきりと「梅雨明け」したことはなかったのではないでしょうか。昨日までのうっとうしい天気とは打って変わって、今日はすっかり夏晴れ。そんな今日、三田の市民演劇のお手伝いで、看板を作成。作業場は外だったのですが、日陰のためさほど暑苦しくなく、むしろ吹きこむ風がさわやか。さらに、クーラーの効いた車で買い出しとか、ネオカラーの筆を洗っている横で地平線に夕日が落ちていくとか、建物内がメインの演劇をやっているとは思えないほど夏をすっかり体感しました(出演者さんたち、ごめんなさい)。
 車で遠くまで行く道すがらやペンキ乾き待ちのときなど、作業をしているスタッフの方とおしゃべりで感じたのですが、三田という街は、車さえあれば基本的な生活に困らず、また何かあれば大阪や神戸に出ればよく、新しい住民が多いので人間関係もそこまでややこしくなく、誰もが実力を発揮できる、なかなかに住みよい街のようです。そして、街の規模も状況も、やはり相当つくばに似ています。そのあたりが、この町になぜか親近感を感じてしまうのかもしれません。車で買い出し(約10年ぶりのフラワータウン!)に行った時も、一人すっかり観光気分で楽しませていただきました。
 今年は去年のように、みんなで水族館に行ったり、花火に行ったり、海に行ったりというイベントはちょっとなさそう。でも、今年は今年でまた違った夏があるんだろうなと期待を大きくした、本格的な夏の第一日目でした。(2010/7/17)

直感型人間の危険な論理
 私はもともと研究者を目指していたぐらいですから、物事は論理的に考えて行動すべきだと思っています。ところが、大学時代や社会人になってからも、複数の友人から「君の論理はむちゃくちゃだが、本質をとらえる直感のレベルは高い」とよく指摘されます。どうも私は演繹法的な論理的思考に弱く、数多くの事象の中から直感的に法則性なり将来性なりを見出していく帰納法的思考の方が得意であるようです。このあたりが「考え方やものの見方や書く文章がどこか女性的」と言われるゆえんかもしれません。
 振り返ってみると、自分が論理を考えるのは、あくまでも直感を補強する場面だったりもします。それは(特に公務員として)社会生活を送っていく上では大切なことです。ところが逆に、直感で違和感を感じたことを、自分を納得させるためだけに論理的に説明してしまったこともしばしばある気がします。「○○なんだから、ここはこのまま進むべき」と自分で自分を論理的に説得してしまうのです。ところが、自分の人生における失敗の大多数はこの「最初、直感的に違和感を感じたものの、論理的にはこれでいいと自分を納得させて突っ走った結果、やっぱり失敗したもの」。自分で自分をだますほど危険なことはありません。もちろん突っ走った結果得たものも少なくはないのですが、無理に違和感を感じる世界で頑張るぐらいなら、のびのびと自分らしさを発揮できる場所で活躍する方が良いのも事実。貴重な時間をかなり無駄に費やした気も致します。
 最近、仕事もまあ順調、プライベートもそこそこ楽しくやっているので、あんまりそんなことを考えることも無かったのです。でも、時折、自分の来し方を振り返ってみるのも悪くないなと思いつつ、一人飲みの昨晩でありました。(2010/7/19)

じわじわと「ロバスト性」を失いつつある社会
 筑波大学も最近はごく普通の大学になってきましたが、私がいたころはまだまだ「新構想大学」の余韻が残っていて、本気で文系と理系の学際的研究なんてものを目指していた風もありました。そんな筑波大の象徴的な授業の一つが「総合科目」。1年間にわたり、自分の専門外の分野のトピック的概略をいろんな人から聞いていくという授業でした。
 そんな中、僕の取った総合科目の一つが「ロボットの現在」。心理学という人間行動を取り上げる学問をするにあたり、何か役立つのではないかと思い受講してみたのです。ところが内容は純粋に工学。若干ちんぷんかんぷんで(眠気を押さえるのに)結構苦労しましたが、何とか単位を取ることはできました。(ちなみにそこでの知識と経験が、昨年度までのロボット担当の仕事に大いに役立ったわけで、大学時代に学んだことがどこでどう役に立つのかは本当に分かりません。)
 そこで最も印象に残ったのが「ロバスト性」という概念。「頑強さ」とか「外界の状況に左右されない、しなやかな強さ」というのが近いのでしょうか。たとえば全くでこぼこのない平坦な道で自由自在に動けるロボットを作っても、実際の場面では全く役に立たない。全く段差や凸凹や傾斜のない道なんてありえない訳です。ロボットの実用化には、現実の世界の不均衡なり不完全さを前提として動く、外部要因に対する頑強さが大きな課題であるという話でした。
 この「ロバスト性」という概念、ロボットやシステム工学に限らず、他の場面でも当てはまりそうです。世の中には様々な障害やトラブルや不測の事態がごろごろと転がっています。むしろそれがない社会(世界)なんてあり得ません。そういうものがあることを前提に、仕事を進めたり、スケジュールを立てたり、人的な体勢を整えたり、または心構えをすることは、とても大切。特にイベントや演劇のスタッフワークでは死活問題です。また、個人に敷衍してみても、クーラーのある自室でしかパフォーマンスが発揮できないのでは社会人としては完全に失格で、職場や現場、多少の過酷な状況であっても一定以上のパフォーマンスを維持し続けることは当然必要なわけです。
 さて、何で今日こんなことを書いたかというと、朝、JRは京都線・吹田駅の人身事故により、阪神は直通運転をしている近鉄奈良線の地震の影響により、それぞれ距離のかなり離れた神戸地区のダイヤが大幅に乱れてしまったからです。列車の乗り入れは日常は大変便利なのですが、そこではやはり、事態に対する「ロバスト性」はどこか犠牲になるのかなと。特定の条件の便利さだけをあまり追求すると、個人も社会システムも逆に頑強さやしなやかさを失っていくのかなとちょっと感じてしまった、朝の振り替え輸送でした。(2010/7/21)

なるほどねぇ、でも自分は…
 ある講演にて。
「『流れ星が出ている間にお願いすると夢がかなう』と言いますよね。私自身、あまり占いとかを信じる方ではないのですが、滅多に表れれず、出ても2、3秒ですぐに消えてしまう流れ星が出ている間にお願いできるような、シンプルで確固たる夢を常に持ち続けている人は、きっとその夢をかなえることができるのだろうと思うんです。」(2010/7/23)

悲劇のここちよさ(劇団四季「エルコスの祈り」感想)
 私は小学校5年生ぐらいからクラッシック音楽に興味を持ちだしたのですが、その時どうも納得できなかったのが「オペラというのは悲劇で、喜劇はオペレッタ。どちらかといえば欧米では悲劇のオペラが好まれる。」ということ。「悲劇なんて見て何が面白いのだろう。すっきりしないし…」と子ども心に感じていたのです。その疑問に応えてくれたのが、「エルコスの祈り(当時は「エルリック・コスモスの239時間」)」だったのです。
 この話が悲劇なのか喜劇なのかは分かりません。ただ、「みんなが幸せになって良かったね」という話ではないのも事実で、本編のラストシーンに主人公であるエルコスはいないし、最後のカーテンコールも大団円という終わり方ではなくエルコス一人の後ろ姿で終わります。単純に楽しい・ハッピーエンドのお話ではないところが、逆に心地よい劇後感と感動を残すというのは大きな発見でした。
 今日も三田郷の音ホールには「夏ざくら」の出演者の方々も含め、多くの小学生が来ていました。彼ら・彼女らは、今日の作品を見てどのような感想を抱いたのでしょうか。そして、26年後(私が見た初演:1984年)、あるいは19年後(一緒に行った方が見た再演:1991年)、この作品を見た時にどう感じるのか、そこに至るまでにどのような演劇経験と人生経験を積んでいるのか、私が見守ることは不可能ですが、ちょっと楽しみでもあるのです。(2010/7/25)
※この作品に対する思い入れなどは、前回観劇後の感想にて。

毎晩訪れる小さな葛藤
 私がいまいるのは実家の2階の4畳半。阪神・淡路大震災でも我が家の中でほぼ唯一なんの被害も受けなかった、壁で囲まれた頑丈な小部屋。頑丈な閉鎖空間のせいか、夏冬関係なく、とにかく熱がよくたまります。部屋の電子時計には温度計が付いているのですが、夏の日の夕方など、帰宅すると33度だの34度だのを示していることが大半。すぐにクーラーの運転スタート、となります。。
 起きている間はそのままクーラーのお世話になっていればよいのですが、難しいのが夜寝るとき。基本的にクーラーはつけずに寝ているのですが、この数年の日本の盛夏の暑さは異常。暑過ぎて寝れない時など、「電気代がかかってしまうし、クーラーの中で寝ると翌日なんとなく足が重いんだけど…」などとちょっとした逡巡と罪悪感を感じつつ、クーラー付きで寝てしまうことがあります。母などは「どうせ数週間の話だし、仕事に差し支えると困るのでクーラーつけて寝れば…」と言ってくれるのですが、「あんまりクーラーのある生活に慣れると、人間が堕落するのではなかろうか…」とつい思ってしまったりもするのです。
 ものごころがついたころからクーラーのある生活を送っていた今の20代前半以下の方々と違い、私たちの世代にとってクーラーはまだまだぜいたく品。客間に1台どーんと鎮座しているようなものでした。そんな高級品を一晩、私室で動かしてしまってよいものか…など、いろんな思いや考えを巡らせながらも、今夜も寝苦しい夜が更けていくのでありました。(2010/7/27)

書きたいことは色々あったはずなのですが
 どうも今日は書き出せません。ピッコロ1学期最後の授業の話や、自室であやしい工作に取り組んでいる話など書くべきことが色々ある気もするのですが、どうもキーをたたく手が止まります。今日は仕事で、30人ほどを前に1時間ぐらい一人で結構難しい話をしゃべったので、自分で思っている以上に精神的に疲れているのかもしれません。そういう日もあるよねー。
 ちなみに、今日は昨日までの猛暑が嘘のような雨。それも結構本格的に振りました。巨大な打ち水のようなもので、少しだけ街も冷やされた気がします。今晩は当然クーラーなしで寝れそうです。家族や職場の同僚などと話していても「ちょっと涼しくなって良かったね」との感想でした。ただ、農作業や防災に携わっている人などは、もっと天候の動向に対して深刻なわけで、単に暑い・涼しいだけで天候の良し悪しを決めている都会人というのはある意味気楽でいいよねーなんて思ったりもしたのでした。
 まあ、今宵はこの程度にいたしとうござりまする。(2010/7/29)

大人の工作教室
 ペットボトルのお茶を小道具として出したいが、舞台上なので実際の水は使えない。また演技の都合上、キャップを開けて飲むふりをした時も、中身が出てこないようにして…という発注がありました。三田の市民劇での話です。
 さっそくスタッフ仲間で検討。中にセロハンを貼る、ボトル自体に色を塗る…など様々な解決策が出たのですが、どれもなかなかうまくいかず。と、ある出演者の方から「スライムを使ってみては」とのご指摘が。確かにそれはぐっとアイデア!さっそく先週の土曜日に作ってみたのですが、なかなかうまくいかない。ボトルの中で撹拌しても固まり方が一様でないし、全部をスライムにすると明らかに重い。さまざまな問題点があったため、いったん家に持ち帰って検討することとしました。
  風船でふたをする、プチプチで底上げ、布を使う、ビニール袋でで上から吊るす…といろいろと試したのですが、どれも翌日萎んでいたり、全体にスライムが回ってしまったりとうまくいかず、結局、「底にスライムを入れる」→「ビニール袋でふた」→「ティッシュペーパーを詰める」→「ビニール袋でふた」→「スライムを詰める」→(1晩ないし2晩待つ)→「上の隙間に更にスライムを入れる」という方法になりました。ミソはティッシュで、これが適度にスライムを吸った上で固まってくれるので、ちゃんと層になってくれます。このティッシュの部分にラベルを貼って隠せばできあがり。
 ということで、三田の市民劇まで、あと1カ月を切りました。ご観劇の際は、役者さんたちの素晴らしい演技やダンスはもちろんのこと、このペットボトルの出来栄えも楽しみにしていてくださいね!(2010/7/31)

トール萌え
 今日は兵庫県の西端まで行って用事を済ませた後、ホームセンターで買い回り。8月は2回ほど演劇に携わるので、それに向けてちょっと用具をそろえようと思っていたのです。蓄光テープは演出さんから直接頼まれていましたし。
 ということで、車が無くても行けるホームセンターの一つ「コーナン神戸ハーバーランド店」へ。最近、舞台関係のものは百円ショップで探すことが多いのですが、やはり質の面でホームセンターの方が安心。また、モノによっては結果として百円ショップよりも安いものもあります。ホームセンターでゆっくり買い物ができるのは久しぶりだったのもあって、木工用ボンドや養生テープ、L型カッターの替刃など、9月以降の模型作りに必要なものも含め、かごに入れていました。
 ふと店内を見回してみると、宝塚歌劇のポスターが。10月の星組公演に抽選でご招待とのこと。星組と言えば、夢咲ねねちゃん!「お買い上げ4,000円以上で専用応募はがき1枚を渡します」とのことで、なんとか四千円になるように買い物をして応募はがき1枚をゲットしました。すっかりコーナンの戦略に嵌ってしまいましたが、まあ、楽しみができたということで良しとしましょう。無駄なものを購入した訳でもないですしね。
 しかしまあ、僕の好きな女優さんというのは、もとランニングシアターの佐久間京子さんはともかく、キャラメルボックスの前田綾さんとか、星組の夢咲ねねさんとか、なんだか身長の高い女性が多いです。颯爽として見える身長の高い女性が、一瞬ふと見せる女性らしいしぐさや表情の移り変わりに弱いのかもしれません。とはいえ、現実に好きになった女の子が決して身長が高いわけでもないので、このあたりは我ながら不思議なもんではありますな。(2010/8/1)

仕事一段落。さあ、2010年演劇の夏へ!
 本日午後の式典を持って、4月から怒涛のごとく続いてきた私の仕事が一段落しました。今日は軽い打ち上げということで、周囲の若手同僚を半ば強引に誘いだし、元町で飲んできました。
 この事業、受け継いだ時は、諸事情により例年に比べほぼ1カ月半遅れていたのです。それを少しずつ少しずつリカバリーしていき、最終的には例年とほぼ同じ時期に式典まで漕ぎ付けることができました。途中、綱渡り的な場面も多々ありましたが、上司や周囲の協力も得ながら、無事すり抜けてきました。こうすればよかったという反省点もいろいろとあるのですが、そこそこの達成感もあります。
 というわけで、いよいよ年休・夏季休暇消化&演劇の季節へ突入!まずは四次元stageが5日リハ・12日が本番。舞台的にはそれほど大がかりなことはないのですが、なにしろ初めての部分が多く、お手伝い身分とはいえ心配事は尽きません。まあ、それも楽しいんですけど。演技の方も、やっと着地点というか到達点が見えてきた模様。ここからの進歩を、僕自身も大いに楽しみにしています。
 三田郷の音の「夏ざくら」は13日からいよいよ大ホールでの練習が始まり、本番が29日に2回。こちらは四次元とは打ってかわって、基本的にはプロの方の指示のもと動いたらよい様子(このあたりの仕切りは未だに良く分かりません)。ともあれ、いつもと違うホールでいつもと違うプロの方のお仕事を近くで見るのは大いに勉強になり、楽しいことです。もちろん、出演の方々の素晴らしい演技やダンスに対して、一観客として大いに期待しているのも事実です。
 仕事はもう少しだけ忙しい時期が続くのですが、明日からは若干シフトチェンジをさせていただいて、2010年演劇の夏を楽しみます!(2010/8/3)

やれば(いろいろ問題はあるものの)できる
 今日は朝から晩まで友人の劇団(演劇ユニット)のリハーサルのお手伝いでピッコロシアター中ホールへ。ゼロから仕込んで・公演やって・バラシをしてという流れを一日で遣り切る必要があるのです。みんな慣れておらず、いろいろと忘れていること・知らないことも多くて、ホールの方に大いに助けてもらいながら、なんとかやり終えました。いろいろな思いはありますが、そこそこの達成感。
 帰って来てみたところ結構疲れており、、明日は通常の(地方役員としての)お仕事のため、それほど詳しい感想などは書く時間がありませんが、ともあれ、自分たちで主体的にやるのは本当に大変だけど勉強になるなあというのが一番の感想でした。まあ詳細は後日。(2010/8/5)

---------------------------------------------------------

あの浜辺のハンモックに今、どんな風が吹いているのだろうか
 昨夜、なごゲストハウスのオーナーである稲嶺さんが亡くなられたという知らせをmixiで知りました。ニュースなどで「沖縄でオコゼに刺されダイビングインストラクターが死亡」と報じられていた事件です。
 私は一度だけ「ゆんたく」でお話をしただけだったのですが、爽やかな風が吹き込む中にもどこか暖かい「なごゲス」という素敵な場所を作ってくださった方でもありました。今月末でクローズ予定だったなごゲスのラストを見ることなく旅立たれたというのは、なんだか複雑な感じもします。
 稲嶺さんのご冥福をお祈りいたしますとともに、なごゲススタッフのみなさまが気落ちすることなく、クローズ最後のその日まで、素敵ななごゲスを守り作っていってほしいと、心から願っています。(2010/8/6)

---------------------------------------------------------

何にも考えていないように見えるための努力と技術
 先日、仕事で、表彰状を渡してお祝いの挨拶があるだけの式典を行いました。講演会なども付いていない、時間にして20分、参加者も20人程度のものでしたので、これまで数万人規模のイベントを取り仕切ってきた私としては「これは大したことはないな」と思って半分なめて準備にかかっていました。ところが、いざ進めていくと、誰が授与者に移動の指示をするのか、難しい漢字への振り仮名はどこに振るのか(表彰状には書き込めない)、表彰盆は表彰者の右側から渡すのか左側からか、マイクの上げ下げは誰がするのか、マスコミ対応、授与者の日程調整、表彰者の誘導、当日従事者への説明、他イベントとのバッティングなど、検討・調整すべきことが山のようにあったのです。表彰状を渡すだけの式典であったにもかかわらず、裏方はなかなかに大変でした。
 これを行政ならではの無駄な作業と捉えることもできますが、民間であっても、式典にせよ、演劇にせよ、テレビにせよ、打ち合わせなりシナリオなりというのは相当の時間と労力を費やして作られています。そして、それが観客や視聴者の前で行われる時には、まるでその場で考えたようにスムーズな、臨場感のある動きや発言が求められるのです。観客側にいるときはそれに騙されていても良いのですが、いざ自分たちが作るときにはその違いを十分に認識しておかないといけないなあと、改めて感じる今日この頃なのでした。(2010/8/7)

静かに何かと向き合う時
 私は中学・高校と6年間、カトリックの学校に通いました。幼稚園はプロテスタントでしたし、その後も「教会学校」に通っていましたから、私にとって最も身近な宗教はやはりキリスト教ということになります。ただ、自分自身はどうしてもキリスト教を信じることができないまま、今日に至りました。信仰を持った方がどんなに楽か…と思ったことは何度もあったのですが、やはり自分の心に嘘をつくのは良くないし、もし神様がいたとしてもそれを良しとはしないですよね。
 ただ、信仰は持てなかったのですが、教会の聖堂の中で過ごすゆっくりとした時間というのは、昔から大好きでした。特に何をするということもなく、ただ座って時間を過ごす。中学生の頃からだったと思いますがその魅力に取りつかれてしまい、用事のない放課後などはよく学校の聖堂に立ち寄っていたのです。
 最近でも、時折、旅先などでカトリック教会を見つけると立ち寄ります。カトリック教会というのは、ミサなどが行われている時間以外は、信者でなくても誰が立ち寄って良い場所。特に夏は、聖堂の中はどこかひんやりとしていて、旅の体と心を休めるのには最適です。色んな事を考えるでもなく考えていると、日常の喧騒や旅の高揚感とは違った何かが、確実に見えてきます。起きている間のことを睡眠の中で整理するように、日常の喧騒から離れて自分の考えを整理する落ち着いた場所とそこで過ごす時間というのも、人生の中で必要なものなのでしょう。
 そういう場所の大切さを教えてくれたキリスト教には大いに感謝する一方、日常を振り返る時間と場所と機会を失いつつある日本人の生活は、何だかすごく残念にも思えるのです。(2010/8/9)

mixi死亡。mixi中毒あぶり出し。
 昨日・今日とmixiが落ちています。というか、全然入れません。昨日は晩に一時復旧したのですが、今日は全く入れません。
 日韓併合に関する首相談話に端を発した韓国からのサイバー攻撃だとか、「イイネ!」機能を付け過ぎたことによる負荷の増加とか、色々と言われていますが公式発表は皆無。単に、「現在復旧作業を行っておりますが、ご迷惑をおかけしておりますことを、深くお詫び申し上げます。」と出るだけです。
 しかし、いざ使えないとなると、非常に不便です。特に電車待ちだの、食事が出てくるまでの待ち時間だの、中途半端な時間をつぶしには、mixiは最適です。日記やボイスで友人の動向が分かるし、興味が共通のコミュの書き込みも楽しいし、突込みどころ満載のニュースも軽い読み物としてはぴったり。そして、夜、家に帰って来てからも、まずはチェック。ちょっとしたコメントを書き込んだ後、2日に1回は日記をアップ。これまであまり自覚症状はなかったのですが、完全に生活の中にmixiが溶け込んでしまっていました。失ってみて初めて気付きました。
 今回の障害、人によっては「オフ会の連絡ができない」「これまで大切に育てていたアプリの中の動植物に大きなダメージ」「毎日欠かさずつけてきた日記の連続記録が途絶える」など大きな被害をこうむった方も結構いた様子。私自身はそういう被害は(今のところ)ないのですが、過度にインターネット上の特定サービス(今回はmixi)に大きな期待を寄せるのはある意味危険だなと感じた、今日この頃なのでした。(2010/8/11)

そんなの百も承知だ(四次元STAGE旗揚げ公演感想1)
 昨日、四次元STAGEの旗揚げ公演が終了しました。私は2回ほど練習に顔を出した+公開リハーサル&本番の2日間まるままという形での「お手伝い」でしたが、実際のところ、当日手伝いの域を超えていろいろと作業なり段取りなどをさせていただきました。主催兼演出兼役者j兼照明兼制作兼舞台監督の人があまりにも忙しいため、私が設営関係の舞台監督的な動きをせざるを得ない部分があったのです。十分な経験も技術も権限も無い中で、いま出来ることの可能性と限界が良く見えた気がします。
 周囲からは容赦ないブラックな感想(?!)を期待されていそうですが、私個人は非常に楽しく作業をさせていただきましたし、2学期以降の学校での授業の経験になることも多く、総合的には大満足でした。5日のリハではぼろぼろだった制作関係業務や前説も1週間で相当程度改善されましたし、役者の力量も1カ月ちょいでむちゃくちゃ上がりました。照明や音響も転換も、リハの時に比べれば格段の進化。辛うじて「人に見せることがまあ可能なレベル」まで持って来れて安心したというのが、半分だけ中に入ってしまっていた人間としての見方です。
 プロを頼まず、役者やスタッフの経験も去年のピッコロ演劇学校/舞台技術学校の1年間だけという人が大半の中で作った芝居。ホールの方々には多大なる協力を頂いたものの、演技にせよスタッフワークにせよ、ある程度プリミティブな状況にならざるを得ないのは主催者も劇団員さんたちも十分承知の上での公演だったと思います。そういう意味では、今回の公演は、無事終えることができただけで、もう所期の目的は十分達したといえるのでしょう。
 今回の反省と反省と反省を踏まえて、さあ次はどこに向かっていくのか。自分自身も多少、関わり方を考えないといけないなと思っています。(2010/8/13)

「だよねー」「だよねー」(四次元STAGE旗揚げ公演感想2)
 四次元STAGEの感想ですが、ここらで少々、作品のお話を。
 今回は、「しもやけの唄を聞いたころ」「パンクロッカー・インタビュー」「シラノ・ド・ベルジュラック」の3作品。いかにも演劇という小品を最初にやり、面白い話でつなぎ、最後は古典。組み立てとしてはなかなか良かったと思います。惜しむらくは「パンク」のどこかに「手紙」が絡むお話があれば3作品を貫く「テーマ」ができたので、それだけがちょっと心残りではありますが。
 「しもやけ」はボードさん・チエコさんの演技が光りました。チエコさんは5日・12日で役者が違ったのですが、それぞれにそれぞれの世界を作っていた気が。ああいう役というのは、その人なりの人生観や人生経験が出てきてしまうんですよね。そして、そのラストシーンを彩った音楽が「続・お地球見の丘より。」から歩く(注意:音が出ます!)。まるでこの劇のために作ってもらったかのような合い方。さらにソースフォーで作り出した「交わる道」もありがちとはいえ素敵。音楽&照明でラストシーンを盛り上げるというのは定番でベタベタですが、私は大好きです。
 「パンク」はまあ、演技云々というよりはノリで走り切れたのかなと。kingの独特の雰囲気は、さすが経験豊富な役者さん。今回の芝居の中ではほぼ唯一現実感のあるセット(?)であるパイプ椅子を使用したのですが、それも良かったかなと。そして、この作品も最後のDona Dona デスメタル ver.(注意:音が出ます!)があまりにも合いすぎ。「この曲にインスパイヤ(笑)されて作品ができたのか?」と思ったのですが、作者によると違うらしいです。
 「シラノ」は古典。多少背伸びして選んだ部分もあるようでしたが、最後は何とか見れる程度までは持って行けたのではないでしょうか。役者の数が足らないことが原因とはいえ、一人何役もこなすというのがさて観客にどこまで受け入れられたかが、多少不安ではあります。とはいえ、5幕のシラノとロクサーヌのやり取り、それに合わせた夕方から夜への照明変化など、なかなか感慨深いものがありました。古典はなぞった上にいかに独自性を加えていくのかが大切。そういう意味では、音響・照明・美術もふくめた演出にまだまだ工夫の余地があった気がします。このあたりは今後の課題ですし、伸びしろということでもありましょう。
 ということで、次回以降も今回の構成がパターン化するのか、あるいは全く違う構成になるのか、それも楽しみなのです。(2010/8/15)

10人それぞれのスタートライン
 ピッコロ舞台技術学校のコース分け結果が、今年は郵送で送られてきました。美術10名、照明6名、音響8名。去年はそれぞれ11名、6名、4名だったので、美術・照明はほぼ現状維持、音響が大幅増と言う結果になりました。ちなみに、男子は美術3名、照明1名、音響6名。理由は分かりませんが、音響の男性率の高さが際立ちます(去年も今年も75%)。音響さんは大型スピーカーやタワー設置の必要性などもあり男性が多いという話を聞いたことがありますが、ピッコロなど屋内演劇関係ではあまり影響しないはずですし、実際にホール付きのプロの女性音響家さんを見かけたこともあるので、単に偶然の結果なのかもしれません。あるいは1学期の授業で女性にはしんどい何かがあるのかもしれません。逆に、照明コースは今年も黒1点となってしまいました。…まあ、そんなことを考えている暇はないと思いますが。色々な意味で。
 私は今年も美術コース。メンバーは私のような美術コース2年目組から、プロとして舞台に携わっていた人、もと役者さん、舞台関係が全く初めての人まで、相変わらずバラエティに富んでいます。この個性も経歴も発想もばらばらな10人で果たしてどんな舞台を作っていくのか、どんなドラマが待っているのか。台本原案も一緒に届き、また楽しく走りぬける6カ月余りが始まります。(2010/8/17)

「失う」ことへの覚悟と決意(劇団演陣「note」感想)
 去年の舞台技術学校同級生の舞台を見てきました。場所はピッコロシアター中ホール。先週「よんすて」をやった場所です。
 実はこの劇団、去年もこの場所で公演をやっており、その時も見たのですが、どちらかといえばコントやショートショート中心でした。ということで、確かアンケートに「一度長編が見てみたいものです」と書いた記憶があるのですが、今回はその長編。さあどんなものが出てくるのか、期待8割、不安2割だったのですが…正直、期待以上によかったです。単純で、決して教訓的ではないけど、どこか暖かく切ないストーリー。そして、それをさりげない演技で支える役者さんたち。これも単純だけど、分かりやすく効果的な照明・舞台装置・音響。全てが決して奇はてらわず、しっくりと一つの世界に収まっていました。2時間程度、全く時間を感じることなく、存分に楽しませていただきました。
 パンフレットによると、この作品の前提としてあったのは「青春」だそう。ただ、この作品は青春の素晴らしさを謳っているというよりは、青春というのはいろんなものを失う過程でもあること、そして何かを(時としては青春も)失わない限りは次には進めないこと、その事実と覚悟と決意を語っているような気がしました。実際はすでに死亡している圭介との交流を続けている杏子。圭介が残したnoteを読んでしまえば、その後、圭介と出会うことはできなくなる。でも、拓の言葉もあり、彼女はそのnoteを読む。…そこに書かれていたのは、不思議な能力を持った男の子が、そんな自分を受け入れる物語。現実を受け入れるとともに、何かを捨てないと、決してその先には進めない。そんな作家・演出家の思いを、杏子と拓を演じた役者さんが、表情豊かな演技で表現してくれたのです。
 最近の私は、もう家庭や恋愛問題で悩むことも無いし、仕事もそこそこ順調、趣味も楽しんでおり、これまでの人生の中ではあり得なかったほど平穏な日々を過ごしています。いつまでもこんな日々を過ごしていたいと思う反面、なんかこれではダメだろうなという気もするのです。何か向かっていく具体的な対象が見つかった時には、今の平穏な日々を一旦失う覚悟と決意が必要なんだろうなと、帰り道にお好み焼きを食べながら考えていました。(2010/8/19)

今日もまたあの街で、夢の世界が繰り広げられています(宝塚花組公演感想)
 昨日はお休みをいただいて、宝塚花組公演を見に。遠くから演劇関係の友人が来たので、関西演劇の大きな特徴の一つでもある「宝塚歌劇」は話の種としても是非見ておくべき…ということで誘ったのです。
 今回は突然決まったため、ほとんど前知識無し。題目はミュージカル「麗しのサブリナ」とショー「EXCITER!!」。宝塚の典型的パターンと言える2本立てでした。概要はここあたりを見ていただいて、個人的な感想としてはサブリナはイマイチ、ショーはむちゃくちゃ面白かった。前回とは逆の感想になりました。
 サブリナはどうしても映画のお話をなぞらざるを得ないので、舞台1時間半に縮めるのは厳しいのかもしれません。ストーリー的に「なんでなんで」というところが結構ありました。コミカルなのかシリアスなのか、ミュージカルなのかストレートプレイなのか、そのあたりの統一感も正直分からなかったり。原作映画を知っていれば楽しめるかもしれませんが。一方のショー「EXCITER!!」は本当に息をつかせないエキサイティングなショー。かっこいいシーンあり、綺麗なシーンあり、コミカルなシーンあり、歌あり、踊りあり、ラインダンスあり、シャンシャンあり、迫りあり、盆あり、大階段あり。「これぞ宝塚」という演出もあれば、「宝塚でこんなこともやるんだ」というシーンもあって、演技の面でも、舞台機構の面でも、とっても楽しめました。前の席に座っていた子どもたちも身を乗り出して興味しんしん。タイトルどおりすっかりテンションを上げさせてもらいました。
 しかし、あんな生の舞台が、宝塚という人口20万チョイの街で毎日1〜2回、2千人近いお客さんを集めて行われているのはなんとも驚異的。兵庫県が誇る文化資産の一つだなあと、改めて感じたのでもありました。(2010/8/21)

闇の中のまたたく光(音楽座ミュージカル「LOVE OF SEVEN DOLLS」感想1)
 怒涛の演劇鑑賞週間の最後は、音楽座ミュージカル・Rカンパニーの「LOVE OF SEVEN DOLLS 七つの人形の恋物語」。8月21日(日)にシアターBRAVA!で見ました。前回の「シャボン玉とんだ 宇宙までとんだ」が非常に良かったので、大いに楽しみにしていました。
 バブル期の日本を舞台とした前回とは違い、お話は第2次世界大戦直前の東欧。地域性も時代背景もストーリーも、決して明るくはなく、むしろ陰湿なイメージで進み、その中で登場人物たちは悩み、苦しみ続けます。そもそもポスターのコピー自体が「現実は魂の受ける試練」ですから推して知るべし。大家・朝倉摂が担当した美術も、盆に載った2階建ての大掛かりな装置ではあるものの、外見は無骨な鉄骨造りの一杯かざり。小道具もそれほど大がかりなものは出てきません。
 ただ、だからこそ、逆に原色系の色がものすごく目に飛び込んでくるのです。主人公のムーシュ(マレル)を象徴する海の照明の青、心と心の間をつなぐリンゴの赤、そしてラストシーン、圧巻の生命の輝きの緑。儚くも力強い思いとメッセージが、そこに込められているように感じました。
 実際、私たちの生活というのも、おそらく大半は明るくない、むしろ陰湿でドロドロとした、茶色や黒色や灰色に塗りつぶされたようなものなのかもしれません。だからこそ、命を感じられる瞬間、人と人の心が通った瞬間というのは、儚くも貴重な、生きていく上で欠かせないものなのでしょう。そんなメッセージを伝えることができる舞台美術表現もあるのだなあと。さすがの朝倉摂&音楽座ミュージカルでした。(2010/8/23)

いいでしょ 私の海(音楽座ミュージカル「LOVE OF SEVEN DOLLS」感想2)
 このお話、いいシーンがたくさんあったのですが、ハイライトはやはり「七つの願い」。周りからひどい仕打ちを受け、下げずまれているうちに自分自身を見失ってしまう主人公のマーシュ(マレル・ギュイゼック)。しかし、悩んでいるのは自分一人ではないことを知り、更に人形たちとのやり取りの中で、自分は嫌われ者のムーシュ(「小さなハエ」という意味)ではなく「私はマレル。私は海」と宣言し、自分の意思で生きようと決意するのです。「マレル」というのはフランス語の「メール」・イタリア語の「マーレ」と同じ「海」を表す言葉なのでしょうね。
 実はこのセリフ、原作にはないそう。そして、この後、お話の中で海が重要な役割を果たしたりもしません。オープニングの紗幕前の明かりが若干海っぽかった気もするのですが、その程度。本当に「海」という言葉は、ここだけにしか出てこないのです。それでも、このクライマックスシーンでこのセリフをしゃべらせて、それがみんなに感動を与えるというのは、やはり日本人ならではの「海」のイメージなのでしょう。何物をも受け入れ、穏やかに受け止めていく、そんなイメージがあるのかもしれません。全ての悩みや悲しみを受け止め、それでも自分の足で立っていく。7つの人形を前に、黒装束の「存在たち」の力も借りながら、小柄な女の子が儚くも力強いダンスを繰り広げる、感動的なシーンでした。
 振りかえってみると、普段大したことないように見える子でも、きっとそれぞれの「海」を心の中に抱えているのでしょう。垣間見えることが少ないだけなのかもしれません。私たちはつい、自分以外の他人の心の深さへの畏敬の念を忘れてしまいがち。そんなことも改めて気付かせてくれたのです。(2010/8/25)

『一人じゃない』
 約1か月前、エルコスさんはこの三田郷の音ホール大ホールの舞台上で、こう言いました。徐々に心が通い合うユートピア学園の生徒たちと心を持つロボット・エルコス。ただ、生徒たちのなかでジョンだけは、ロボットに育てられ母親のぬくもりを知らないため、エルコスに馴染めない。そして、「ロボットなんてこの世からなくなれ」とひどい言葉を投げかける。不安そうにエルコスの周りに集まる生徒たち。「エルコス…泣いてるの?」口々にジョンの悪口を言い合う生徒たち。それを遮るようにエルコス。「一番つらいのはジョンだから」「だってエルコスだって苦しんでる」「大丈夫、だって私は一人じゃないから」…そして名曲『語り合おう』に繋がっていくわけです。
 いつも思うのですが、演劇というのは本番まで絶対スムーズには進みません。少なくとも私自身、みんな何の不満も無く、爽やかにスムーズに気持ち良くよく出来上がった舞台など知りません。主役には「何で自分だけここまで苦しまなければいけないの」という苦しみがあり、脇役には自分がメインで出れないことへの悔しさや妬みがあり、ダンサーはダンスシーンの少なさやアクティングエリアの狭さを不満に思い、舞台美術家はダンスのために平板な舞台装置になることを嫌がり、演出家は観客や企画サイドからの要求に応えなければいけない重圧があり、舞台監督は駄々っ子の演出と役者、照明音響セクションの間に挟まれ、制作には「それぐらい自分でやれよ」というようなしょうも無い無理難題が次々とやってきます。ほんと悩みや苦しみ、不平や不満が渦巻いている世界です。
 中にはしなくても良い苦労や心配が多い気もしなくはないのですが、それはさておき、そういった沢山の人間の生の感情が一つの方向に向いた時に、本当に素晴らしい舞台が出来上がり、役者も観客も感動できるのではないか。そのパワーはやはり生身の人間がその場で取り組まないとできないもの。信じられないほど膨大な時間とお金と情熱を傾けて、それをたった1時間なり2時間なりの演劇に取り組む。なんともぜいたくで意味のあることのようにも思えるのです。
 いよいよ明後日、三田市民演劇「夏ざくら vol.3 −瞬(とき)間−」開演。キャスト・スタッフ集めて約100名の思いをのせて、さあ幕が開きます。(2010/8/27)

『夏ざくらが呼んでくれたのかもしれない』
 市民演劇・三田交響曲『夏ざくら vol.3 −瞬(とき)間−』、無事終了しました。今日は初日と千秋楽、そしてバラシ・打ち上げと怒涛の1日でした。
 終電帰宅である上に、明日も朝からばっちり仕事が予定されているので、今ここで長文の感想を書く気もないのですが、やはり、老若男女、いろんな人がいたということは面白かったなあと。色んな経歴・バックボーンの人が、一つの作品のために、同じ時間に同じ場所に集まり、同じ舞台を作り上げたという事実だけは、その出来がどうであれ十分凄いことだと思います。そして、今日の打ち上げで、様々な人の思いを多少なりとも感じることができたのは、うれしかったです。
 ということで、とりあえず今晩は「よかったなあ」という気分だけに浸りつつ、寝ることとします。おやすみなさーい。(2010/8/29)

『この瞬(とき)間を大切に』
 さて、多少冷静になって「夏ざくら」について考えてみますと、やはり台本が良かったなあと。主役・準主役の女性3人に対し、それぞれ、明確な悪役(正行・山本、明日香に対してはジュリ?)を設定。女性3人の悩みを明確に提示したあとに、徐々に集合して奇跡の1日(実は台本上は「目覚めの章」とされています)へと向かっていく。分かりやすいパターンです。
 それぞれの悩みも丁寧に描かれており、「人は一人ではない、みんな同じ町に住む仲間(チーム)として生きていこうよ」という主題がすっと体の中に入ってきます。ちなみに打ち上げのときに脚本家さんと話をさせていただいたのですが、3年目ということもあって、それぞれの人の雰囲気などもある程度想定しつつ台本を書いていった部分もあるとのこと。それが脚本の中の人をより生き生きとしたものにしているのかなあともちょっと思いました。
 素晴らしい本を支えたのが、生オーケストラと照明。生オケは演技と合わせるのが大変だったようですが、やはり生の音楽には練習不足を埋めて余りあるだけの力があります。感動的なシーンはより感動的に、不気味なシーンはより不気味に、生オケが入ったことによって一気に役者も本番まで乗っていきました。そして照明。決して灯体の数は多くはなく、流行りのムービングやLEDなども使っていないのですが、何ともお見事。特にダンスシーンは照明のありなしで全然印象が変わってしまいました。最小限の舞台装置の中で、ジョーゼット幕を染めることにより様々な場面を演出するという手法もさすが。役者の技量も様々なため本番オペは大変だったようですが、とにかく「これでここまでできるんだ」というプロの技を十分見させていただきました。
 役者さんも技量は色々ですが、演劇初心者の方でも非常に魅力的な方が多く、技術面では3年目の人や他での演劇経験者などが上手く引き上げていって、最後は全体として十分にまとまっていた気がします。そして、子どもたちを含めみなさんダンスがとってもお上手。三田という街のポテンシャルを存分に感じさせていただきました。もちろん、それをまとめた演出家や舞台監督のプロの技というのも、今後演劇活動を続けていく上で参考になりました。
 個人的には、途中で多忙になったりして、このままボランティアスタッフとして関わり続けて良いのかと思ったことが何度かありました。ただ、続けたことが良かったのかどうかの評価は別にして、あの時あの場所で過ごした瞬間が充実していたことだけは事実だなあと、改めて感じているのです。(2010/8/31)

『あなたを見守り続ける 夏ざくら』
 県庁前の「県民会館」ロビーは実は密かな穴場。早朝から開いており、県庁とは違って冷房もしっかりと効いているのです。県庁に早く着き過ぎた時などは、ここで涼んだりもうひと眠りするのはとっても気持ち良いもの。そして、ここは「兵庫県芸術文化協会」の本部ということもあり、県内各地で開催される文化・芸術系イベントや募集のパンフレット・チラシがたくさん置いてあるのです。
 2年前の春の朝、ここでたまたま発見したのが「夏ざくら」出演者・ボランティアスタッフ募集のチラシでした。当時は異動で仕事の忙しさが大きく変わった時。明らかに生活の中で仕事の占めるウェイトが減ってきており、「何かしないと」という思いはあったものの、何をしたらよいのか暗中模索の状況でした。仕事の都合もあって結局は参加しなかったのですが、「演劇もう一度やってみるかな」ときっかけの一つがこの「夏ざくら」だったのは間違いありません。
 「夏ざくら」は3年目の今年で最終章とのアナウンスメントがありました。来年度からは別の新シリーズになるそうです。最後にきっかけの「夏ざくら」に関わることができたのはとても幸せなこと。来年度以降、夏ざくらが残した成果と想いとが、新しいシリーズにつながっていくことを大いに期待しています。
 さて、今日から9月。明日からピッコロ舞台技術学校も再開します。ちょっとだけ気分を新たに、また楽しくがんばっていきたいなと思っています。(2010/9/1)

〔おまけ〕夏ざくらvol.3・好きな名セリフ・名場面集
※恒例ですが、今回の脚本は結構名セリフ・名場面が多かったと思います。
 個人的な趣味と嗜好のもと、記録を兼ねて残しておきます。
--------------------------------------
「パパから一番遠いお部屋がいい」
彼女は板に乗ると途端に役者だなあと思っていました。
分かってやっている感もあり、末恐ろしいですな…。

「はじめまして、わたくし学級委員長のみどりです…あれ?何だっけ」
「友達っていうか、クラスメイトです。」
みどり・ももかペア、なかなかきらりと光っていたと思うのですよ。
脇役さんのレベルの高さに、このチームのポテンシャルを感じます。

「ホント、平和ボケってこの事ね!」
彼女にこう言い放たれると、なんだか背中がもぞっとするんですけど(笑)。
このセリフで綾乃の性格付けが決まってしまったような気も。

「だいじょうぶ…じゃないです。」
「…本当ですか。」
ルミさんはいいシーンが結構あるんですが、ここが一番かなと。
彼女の心の動きが観客に伝わっていった気がします。

「あんたは相変わらず優等生でいいわねーなんて思ってた。」
「私だってお姉ちゃんは相変わらず無関心だねーなんて思ってたよ。」
(お互い笑いあって)「じゃあ、お互い様だね。」
明日香はピンでももちろん名演技ですが、香菜恵との絡みが特に良かった。
舞台裏でお互いに支えあう姿は、本当に実の姉妹のようでした。それが伝わってきます。

「(イメージの声)綾乃せんせーい!」
ベタとはいえ難しいシーンでしたが、綾乃ちゃん見事に演じ切ったなあと。
あと、セリフのないところでもきちっと演技していた子どもたちの進歩も印象的でした。

「仕事中の俺の手を煩わせるなんてあり得ないな」
「必ず後悔させてやる!」
ピッコロとかだったら、絶対にみんなの間で口癖になっていたような気がする。
正行さんのあまりの熱演ぶりに、子どもたちは本当に怖がっていたり。

「教会で指輪を交換した時の、あの時の嬉しさを、私はまだ覚えてる」
個人的にはいろいろと複雑な想いが残る部分ではあるのですが(苦笑)…。
本(脚本家)、演出、役者、音楽のベクトルがすごくあっていました。

「ママ大好き!」
「ママも大好きよ。」
一種の「当て書き」だったそうですが、彼女も子どもたちも本当にほんわかした雰囲気を醸し出していました。
3人の女性の深刻な悩みのなかで、尾田先生・お嬢のコミカルなお話は一服の清涼剤!

「この町に来てよかった!この瞬間を大切に」
最後に心からこの言葉を出していた明日香ちゃん、やはりすごい役者さんでした。
色々あっても最後はやはり人と人とのつながりなのだなということを改めて認識。

--------------------------------------
久しぶりに市民演劇に触れさせていただき、今の自分の立ち位置と可能性と限界をよく認識できました。
役者の皆さん、ボランティアスタッフのみなさん、本当にありがとうございました!お疲れ様!

クールジャパンの足元
 日本有数のアニメーション制作会社であった「グループ・タック」が倒産(破産)したとのこと。「まんが日本昔ばなし」「タッチ」「不思議の海のナディア」などを手掛けた、その筋(?)では有名な会社でした。帝国データバンクによると、その理由として「少子化の影響でテレビアニメに対するスポンサーの撤退が相次いだことから受注が減少」と書かれていました。
 最近、日本のアニメーションは「クールジャパン」の筆頭、海外への輸出に適したコンテンツであるという認識が高まり、内閣府や経済産業省が報告書に取り上げたり、上海万博で萌えイベントを開催したり、国勢調査のイメージキャラクターにつかわれたりと、明らかに地位は向上し、国家戦略の一つとして海外への売り込みも進めています。ところが、どうもその足元がおかしくなってきているようです。以前、あるアニメ制作会社さんを訪問させていただいたことがあるのですが、動画を書いているだけではとても一人で生活していくのは厳しい程度のお給料しか出ないとのこと。いきおい、この部分は海外(韓国・中国)への外注になることが多いが、そうすると日本国内から動画マンがいなくなり、逆に動画をやったことがないのでよい原画マンも生まれてこないという危惧をお聞きしました。そのうち、日本で企画立案したアニメであっても実は制作は全て海外というアニメーションがばかりになってしまう可能性もかなり高そう。空洞化が進みつつあります。
 アニメーションというのは、最初はTVでの放映権料に頼る構図でしたが、その後、海外輸出、ビデオ化による制作費回収とつづき、最近ではメディアミックスの手法がとられてきています。ただ、その中でも十分に関係者が生活していけるだけの利益を生み出すビジネスモデルが出来あがっておらず、若い情熱ある人からの搾取でなんとか成り立っている構図があります。クールジャパンと持ち上げるのもよいのですが、なんとか生活できるようなビジネスモデルを作ることができないか。私はただ遠くから見守るだけですが、本当にそう思います。
 ちなみに、今回の倒産の大きな理由の一つとして挙げられているのが、社長であった田代敦巳が今年7月に亡くなったことにより、社内体制の再構築が難航したこと。田代氏は「トップをねらえ!」のヱクセリヲン艦長役として登場することでも有名な業界の著名人。代表者死亡で途端に中小企業の経営が立ち行かなくなる…という話は仕事でも良く聞きます。事業承継というのは中小零細企業経営にとって最も大きな事業である、ということを改めて認識しました。最後になりましたが、これまでありがとうグループ・タック、そして田代敦巳さん。(2010/9/3)

さあ、維新前後の世界へ(黙阿弥オペラ感想1)
 土曜日の晩、梅田でこまつ座&ホリプロ公演「黙阿弥オペラ」を見てきました。井上ひさし追悼公演とのこと。実はこのチケット、急に関係者から譲ってもらったもの。ほとんど何の予備知識も無しに見に行くこととなりました。あのシアタードラマシティが超満員。藤原竜也が出ていたからかもしれませんし、井上ひさし追悼公演というのがあったからかもしれませんが、久々に純お芝居で満員の演目を見た気もします。お話自体の面白さや役者さんのうまさにも引き込まれたのですが、まずは専門(?)の舞台美術から。
 江戸の二八そば屋が舞台で、幕末から明治末期の約30年間。季節も雪降る冬のシーンから、提灯の夏のシーンまで。それを一杯(一場面)の舞台装置だけで演出していました。最初はいかにも安普請だったのが、途中で電燈がともったり(これを紗幕から透かして登場させる演出はなかなかに秀逸)、ボンボン時計が壁にかかったりします。そして、このお話の重要な「株仲間の帳面」も少しずつ色あせたものが使われていたり。なかなか小道具さんも楽しんでいた気がします。
 合わせてセットで言うと、緞帳前の上下に袖幕代わりの大きなパネルがあり、その内側に小さなスツールがそれぞれ上下に1脚ずつ置いてあったのが、非常に印象的かつ効果的でした。この2脚を演技の中で役者さんたち(というか演出家)が非常にうまく使っているのです。ここに出てきて一人悩んだり、場面を見守ったり、あるいはタンカを切ってみたり。一種の花道的な役割を、シンメトリーに置かれた小さな2つのスツールが果たしているのです。
 シアタードラマシティの構造が良く分からないのですが、もしかするとこのために緞帳を後ろのバトンに吊り替えているのかもしれません。というのも、終幕の際、普段ではあり得ないほどに緞帳が前後に揺れていたので。ただ、そもそも緞帳って吊り替えられるようなものなのでしょうか。出来たとしても、大道具さんの仕込み・バラシ作業が相当大変そうです。
 ともあれ、あの大きく客席側に開かれた舞台構造が、観客を二八そば屋の世界に引き込んでいく手助けになっているのだなと感じたのでした。(2010/9/5)

御見物衆との真剣勝負(黙阿弥オペラ感想2)
 黙阿弥オペラですが、追悼公演に選ばれただけあって、井上ひさしの訴えたいことが満載のお話と見えました。約3時間半の長い公演で様々なお話があり、「御恩送り」の話も良かったのですが、何と言っても題名にもなっているオペラに関する「御見物衆」のお話が一番彼の訴えたいことであったように思えます。
 文明開化の後、新政府は不平等条約改正のため西洋の文物を取り入れるのに必死。黙阿弥(新七)のもとにもオペラの台本を書くようにとの催促が来ます。グラント将軍が来日するのに合わせて歌舞伎の舞台でオペラをやり、いかに日本が文明国家なのかを示そうというのです。本場仕込みのオペラ歌手であるおせんちゃんも薦める中、黙阿弥はいいます。「本当にオペラを見たい、自分の食費を削ってでもオペラを見たいという御見物衆が居るのだろうか。日ごろの苦しい生活を、いいセリフを聞いて、笑いや涙の中で流してしまいたい。そんな真剣な御見物衆の思いが桟敷から溢れているからこそ、いい芝居ができる」のだと。
 この話が国民という御見物衆を無視して開化を進める明治新政府と天皇制に向かっていくあたりは、やはり井上ひさしなんですが、それはさておき、真剣に演劇を見る・見ている人がいるということを、演劇を提供する側もされる側も、最近ちょっと忘れているような気がします。チケット代が相対的に安くなっているためか、世間の中に「ハレ」と「ケ」の区別がつかなくなりつつあるためか、演劇が「物語性」を失いつつあるためか、演じる側も演じられる側も切るか切られるかといった真剣度が落ちてきているのかもしれません。それが軽薄な芝居を増やしてしまい、ますます真剣なぶつかり合いを避ける悪循環に陥っている気もします。
 演劇が一期一会であることは100年前も今も100年後も変わりません。金銭的・物質的にはかなり満たされている現在、多くの人にとって最も貴重なのはおそらく「時間」。多くの人がその貴重な時間を費やしてくれている、そして自分もその貴重な時間を費やしているという真剣さを持って、もう一度舞台に立ち向かわないとな、という気分にしてもらったのでした。(2010/9/7)

むかしのしごとをふりかえる
 今日は、去年まで担当していたイベントのお手伝い&見学でした。主催者側にもスタッフ側にも知った人がたくさんいるのでやりすかったのですが、やはり今年度の変更点も多々あって、多少戸惑ったり。とはいえ、気軽な身分でイベントの手伝いをしたり、あるいは参加者としてブースを見て回ったり講演を聞いたりしていると、自分が直接携わっていた時とはまた違った感想が得られるものです。改めての感想は、「よくこれだけのものを動かしていたなー」というもの。出展者・来場者・関係業者など、ものすごい人数の人がこの会場に集まり、それぞれの思いで動いている。もし人件費換算したらどんなことになるのでしょうか。ものすごい影響力があったイベントだったんだなと、改めて感じました。
 あわせて思ったのが、1年というのは結構長いなということ。1年前と今では自分も、周囲も、結構変わっています。舞台技術学校での勉強の成果か式典の仕切りがうまくなっていたり、仕事が変わったことにより会場内の企業さんや大学とも違ったお付き合いが始まっていたり。何も変わらないようでも確実に変わっているんだな。そんなことを感じつつのポーアイの1日でした。(2010/9/9)

世界はハープで満ちている(CLANNAD感想1)
 「泣きゲー」の代名詞であるゲームブランドKeyの代表作「CLANNAD」。本日、コンプリートしました。“Air”“Kanon”とこれで鍵3部作(?)を制覇したこととなります。最初にやったAirほどの感激はなかったのですが、「CLANNADは人生」というコピペがあるぐらいなのでなかなか考えるところもありました。
 何と言っても、一番気に入ったのは「一ノ瀬ことみシナリオ」。女の子の性格(不思議ちゃん系天才少女)は好きなタイプではないのですが、何と言っても張りまくった伏線とその回収方法がすごい。そのバックグラウンドとなる下敷きはなんと「たんぽぽ娘」「超弦理論」!どちらも何故か知っていた私にとっては「なるほど、そう来るかー」と言った感じでした。もちろん、古いSFや難しい理論の話は全く知らなくても十分楽しめる&感動できるのですが、多少なりとも予備知識があるとさらに深く味わえるシナリオになっています。粒子を1次元の弧としてとらえる超弦理論を下敷きに、「世界はハープで満ちていて、そのひとつひとつが、それぞれ異なった音を奏でているんだ。そうしてあらゆる音が複雑に響きあい、たったひとつの調べが生まれる…。だから、世界はこんなに美しいんだよ」と娘にいい、娘の名前を「ことみ」として、ヴァイオリンを習わせる。なんて素敵なんでしょう!
 更によいのが、動画や音楽とのコラボレーション。特に、白い画面にいろんな国の言葉で描かれる「この鞄を見つけたら、どうか娘に届けてください」。世界各国の様々な人々の思いが込められたスーツケースが、今この場所にあるということを、こんなに簡潔かつ端的な手法で描きだすというのは、本当にすごいなあと。このシーンのためだけに作られた音楽(タイトルはその名も“TOE”)も更に感動を呼び起こします。PCゲームにはPCゲームの、小説には小説の、演劇には演劇の手法というのがあるのだなあと、そんなことも感じました。
 実はこのシナリオ、ライターがメインの方とは違うそう(涼元悠一氏)です。次は涼元さんが一人で企画・シナリオのゲームをやらないと…(苦笑)。(2010/9/11)

私もありがとうございました(CLANNAD感想2)
 CLANNADには一ノ瀬ことみ以外にも魅力的なお話がたくさんあるのですが、メインのお話(渚・汐とか朋也とか古河家とか)以外で気になったのは「杏シナリオの椋」と「智代シナリオの結末」でしょうか。
 藤林杏と椋は双子の姉妹。元気な姉・杏と、物静かな妹・椋という組み合わせ。さらに、双子姉妹が同じ人を好きになってしまったり、身代わりになったりという話は、全くもって定番でベタ。良かったのは、主人公(朋也)がもともと付き合っていた妹・椋と別れて、姉・杏と付き合ったことを、椋に謝罪するシーン。「ごめん、許してくれ」という朋也に対し、「ダメです…許したくないです」という椋。ただ、その雰囲気はどこか柔らかい。椋は、二人が付き合っていた日々の思い出を語り、最後にこういいます。「謝られて…それを許してしまうと…あの時間が嘘だったように思えてしまうんです…私には大切な思い出です…だから謝らないでください」。…たとえ最後の結果がどうであろうとも、一緒に過ごした日々の輝きは変わらない。だから、お互いに「ありがとうございました」と感謝して別れることができる。僕たちの日常生活でもこういうことってあるよね、と大いに共感できました。
 智代シナリオの方は、落ちこぼれで進学も諦めた主人公・朋也と、人望もあり学業も優秀で周囲からも期待される生徒会長・智代との身分違い(?)の恋物語。これも実際そういう話ってあるねーと思いながら見ていました。男女平等の時代といっても、やはり恋愛となると男性の方が高学歴・高収入でないとどこかしっくりこないというのは、正しいのかどうかは別にして、どうしてもあるように思えます。そして、私の周囲には優秀で高学歴で、それでいて男性の一歩後ろに下がっていたい性格の女性が結構います。英語でスピーチする智代に、そんな彼女らの面影を重ねてしまいました。…私には、智代シナリオはBAD ENDはもちろんのこと、TRUE ENDもなんとなく、その後が幸せになる気がしないのですけど…。
 実はこの智代シナリオ、別にスピンオフのお話(智代アフター)があるらしいのです。次はそのゲームをやらないと…(苦笑)。(2010/9/13)

楽しいことは これから始まりますよ(CLANNAD感想3)
 CLANNADは大きく「学園編」と「アフターストーリー」に分かれます。学園編にも「一ノ瀬ことみシナリオ」をはじめとする素晴らしいシナリオが多いのですが、やはり大切なのは卒業後の出来事を描いた「アフターストーリー」でしょう。
 主人公・朋也とヒロイン・渚のほほえましいやり取りも楽しいのですが、ここでうまく書かれていたなあと思うのは朋也の就職の話。彼は卒業後、だらだらと渚の実家のパン屋さんを手伝っているのですが、これでは自立して渚と暮らしていけないと奮起し、電気工事会社に就職するのです。飛び交う専門用語、厳しい先輩の指導、馴染めない職場の同僚、そして屋外や高所での過酷な肉体労働。慣れない仕事に毎日疲れ切って帰宅する朋也。そんな中、渚の助けもあって、懸命に食らいついていき、周囲からの評価を勝ち取っていきます。
 確かに、仕事というのは、たとえそれが楽と思われがちな公務員であっても、慣れるまでというのは本当に大変です。就職した当初は、本当にこんなことが自分にできるのだろうか、いつまで勤まるのだろうか…と不安になることも多々あります。ただ、何とか食らいついていけば、いつの間にか自分の能力になっていき、それが生活の糧、更には人生の目的の一つになってくるものでもあるのです。
 このゲームをしているのは、おそらく大半が10代20代の若者。それも厳しい部活動や厳しい受験勉強に打ち込んでいるとはいえない男の子が多いのかなと。そんな彼らに、仕事の厳しさとそれを乗り越えることの大切さ、そして乗り越えてこそ自立できるし家族をつくることができるんだと訴えたいのかもしれません。
 いくら真実が含まれていても、ゲームはゲーム、お話の世界です。現実の世界はもしかしたら過酷な日々かもしれないけれど、でもそこには楽しいこと、素敵なことが、このCLANNADの世界以上にたくさんあるんだよ。はじまりは、いつだって小さな勇気から。呼びかけることから、世界が始まる。そんなメッセージを感じながら、CLANNADと過ごした約2か月間は終わりました。(2010/9/15)

まわるまわるよ
 20年ほど前、中学校の地学の時間。天体の運行の話を習っていて、どうしても不思議なことが一つ。授業終わりに「何か質問のない人?」と聞かれたけれど、あまりにも馬鹿らしい質問の気もして、周囲の空気もあり、言い出せず。後日、たまたま先生が理科室にいた時に勇気を出して聞いてみた。「先生、そもそも、地球や月は、何の力が働いて自転したり公転したりしているのでしょうか?」
 そんな中学生の質問に対して、地学の先生は、地球が回るのは宇宙や太陽系の成り立ちから始まる「慣性」によるものであること、そして地球の自転は決して一定ではなく少しずつ遅くなってきていることなどを教えてくれました。そして、専門だけの学究肌のイメージのあった先生から、「とってもいい質問やなあ」とほめてもらったことも良く憶えています。私は理系分野には進みませんでしたが、宇宙の話や、逆にもっともっと小さい世界で回転している原子や素粒子の話が決して嫌いではないのは、このときのやり取りによるところがかなり大きい気がします。
 そんな思い出のある先生の訃報を、先日聞きました。6年間の中高時代で直接習ったのは1年だけだったとと思うのですが、でも、忘れられない恩師でもあります。ご冥福をお祈りするとともに、自分も誰かにそういうきっかけを与えられたらよいな、そうやって次の世代に何かのきっかけを与えていくのもそろそろ私たちの世代の役目なのかな、とも思っているのです。(2010/9/17)

だいじょうぶ…じゃないよね(「AWA〜まぼろしの初恋〜」感想)
 徳島まで県民演劇「AWA〜まぼろしの初恋〜」を見てきました。三田の「夏ざくら」と同じ脚本家・演出家なので、その違いなども楽しめるかなと思い、徳島旅行のきっかけということもあり、行ってみたのです。「郷土愛」と「破れた初恋」の掛け合わせ、賛否両論を呼びそうなラストシーンと、なかなか難しいお芝居をしなければならない中、出演者の皆さんは非常によく頑張っていたと思います。
 特に良かったのが、「狸たち」で、一人が自分の性格をきちっと把握して役を演じている(しゃべっている時もそうでない時も)のが印象的。ダンスも決してうまい人ばかりではないのですが、集団として頑張っているのがとてもよく分かりました。他のグループも要所要所に上手な人がいて引っ張っていました。出演者の皆さんのチームワークが見ている方にも伝わってきます。
 また、「県民演劇」ということで阿波人形浄瑠璃が使われるのですが、これが伝統芸能として見せるのではなく主役の女の子(悠里)の回想シーンに合わせて行われるのです。これがとても印象的。地域の文化活動の一環として行われる演劇公演に出てくる伝統芸能というのは本筋とは関係ない、浮きまくったものになるのが常なのですが、この人形浄瑠璃登場の場面は全くそんなことがなかったのです。そして、その感情の表現力はさすが伝統の技と言わざるを得ません。これを機に伝統芸能に興味を持つ人が増えるといいなとも思いました。
 三田との関係としては、おにぎりが出てきたり、メーキングビデオが流されたり、2人シーンの立ち位置が似ていたりと色々とあるのですが、個人的には「だいじょうぶ…じゃないよね」という悠里のセリフが、「だいじょうぶ…じゃないです」というルミのセリフにかけてあるのかなと、一人ほくそ笑んでいました。まあ、脚本家のみぞ知る世界ではあります。ともあれ、お疲れさまでした。(2010/9/19)

県域放送県の県庁の星
 先日、徳島のビジネスホテルに泊っていた際、現地の放送局のニュースで県民演劇のことが取り上げられました。それも1社ではなく、少なくとも2社以上です。「今日、県民演劇が行われた」ということがニュースになる、そこにニュースバリューがあると判断されるということは、正直、新鮮な驚きでした。兵庫県や神戸市(あるいは三田市)ではちょっと考えられません。
 ご存じのとおり、関東・中京・関西の広域圏以外は、基本的に民放は1つの県域のみを放送エリアとしています。そのため、知事の動向や地元でのイベントなど、地元密着型の話題がどんどんテレビで取り上げられるのです。関東圏や関西圏ではそうはいきません。もちろん、県域放送は地元メディアを支配したい地元新聞社のせいとか、県とメディアとが蜜月関係を築きがちだとか、規制緩和のこの時代にはふさわしくないとか、いろんな意見もあるようですが、「県人意識」や「地元意識」を植え付ける上では、地上波が県域対象と言うのは明らかに良い方向に働いているのではないかと思います。そして、つい威張りがちなメディアと一般の人々との関係も、広域圏よりもずっと近い気もするのです。今、県域放送を採用している県ではこれをアドバンテージとしてとらえるとともに、そうでない都府県ではその代替措置をよくよく考える必要があると思います。
 まあ、そういう県での県職員って本当に偉いんだろうな…というやっかみも半分あるんですけどね(苦笑)。(2010/9/21)

失われつつある移ろいゆく季節
 私の部屋の電子時計には温度計が付いており、30度を超えるとクーラーをつけることにしています。昨日の晩は寝苦しく、30.1度。ところが、朝方から雨が降ってきて急に温度が下がり、今朝は24.7度。急にひんやりとしてしまいました。天気予報によると今年はもう30度は越えないようなので、急に秋が来てしまいました。今日、外に出かけたのですが、半袖シャツが少し寒いぐらいです。
 今年は夏になる時も、突然梅雨が明け、暑くなった気がします(7/17の日記参照)。爽やかな中にもすこし汗がにじむ初夏とか、暑い中にもどこかに安ど感がが流れる晩夏とか、突き抜ける青空の下ほのかに枯れた匂いの風が吹く初秋とか、そういう日本ならではの移ろいゆく季節というのが、今年は全くなかった気も。単なる偶然なのかもしれませんが、地球温暖化・異常気象で、四季以外の微妙な季節の移り変わりが吹っ飛びつつあるのかもしれません。
 気候・気象が変わることにより、農作物・水産物に深刻な影響が出てしまうのは間違いないのですが、さらに風土や文化、文学(特に俳句とか和歌とか)などにも影響が出てきてしまうのではないか。そんなことも少し恐れてしまう、今年の夏でした。(2010/9/23)

閉じる舞台・開く舞台(劇団文化座「眼のある風景」感想1)
 今日は舞台技術学校の鑑賞授業ということで、ピッコロシアターで劇団文化座「眼のある風景 夢しぐれ東長崎バイフー寮」を観劇。今回はあまり前知識を入れることなく、先入観なしに見たのですが、なかなか高質・硬質な舞台でした。(ただ、ところどころ、けれんや浮きがちなギャグもあって、あの辺りは賛否両論でしょうねー。宝塚北高演劇科の生徒さんたちには受けていた様子でしたが…。)
 スタッフワーク関係で言うと、特に良かったのが照明。新劇ですから基本は地明かりなのですが、これが何ともやさしく、美しい。そして、その地明かりが、季節や時間、その時の感情に合わせて、ほんのわずかづつ変わっていくのです。「機械っぽさ」を全く感じさせることのない照明でした。一方、カットイン・カットアウトも効果的。芝居始まりが音楽なしのカットアウトで始まるのも、突然芝居の世界に放り込まれてしまうといった感じで印象的でした。今回の一押しは照明でしょう。
 それを支える舞台は、基本的には新劇オーソドックスな、具象的なもの。ただ、普通と違うのは天井部分に屋根があること。反響板の天反のようにガラス窓付きの屋根が吊ってあるのです。(公式ブログにあります。)この天井は2分割され、「現代」では山形に、「過去」は低い位置で一直線に並びます。そして、ラストシーンでは一直線のまま、高い位置へと。部屋の中での出来事が、舞台を離れて劇場全体・社会全体へと敷衍されるかの如く、客席に向かって開くのです。単純な仕掛けだけど、なかなかうまい効果的な舞台美術だなあと思い、「さて舞台美術家は誰だろう」と見てみると、大家・朝倉摂氏。まいりました。
 いま10月末の合同発表会の舞台美術を考えているのですが、舞台美術を考える上で、広がりが必要か狭まりがよいのかということは、最も基本的な事柄として、美術家が演出家の意図を受けて最初に決めておく事柄のような気がしています。ただ、こういう可動部分で広がり・狭まりを出すという手法は大きな発見だったのです。(2010/9/25)

純粋まっすぐさん(劇団文化座「眼のある風景」感想2)
 今回の「眼のある風景」は戦時中、画家たちが集った下宿が舞台。ということで、戦争に翼賛して戦争協力画を描くのか、あるいはあくまでも反対していくのか…という話がバックグラウンドとしてあります。その中で、主人公は戦争に反対するとかしないとかの思いはさほど強くなく、ただ自分の好きな絵を書いていきたいと願っていたものの、時代がそれを許さなかった…というのがあらすじです。
 その中で個人的に気になったのが、転向して戦争協力画を描く兄を誇りに思う妹・ミユキ。戦争反対者・非協力者が多いバイフー寮の芸術家たちを非国民呼ばわりしたりと、典型的な軍国少女を演じています。とてもありがちな設定なのですが、何故私が気になったかというと、「この社会は何か変だ」と訴えたいときに最も支障となるのは、実はその指導者や中枢ではなくて、彼女のような純粋まっすぐに信じてしまっている人ではないかと、最近考えているからです。
 というのも、純粋まっすぐさんは本当に元気で純粋、素直かつハイパーテンションですから、彼・彼女の純粋な思いを打ち破る自分に、どうしても罪悪感を感じずにはいられません。また、彼・彼女の主張は、たとえば「何で国を思ってはいけないの」とか「みんな一致団結して頑張って行こうよ」とか、明確なワンワードで、それ自体は否定しにくいものですから、なおさら論破しにくいのです。ただ、そこを足掛かりにして出来あがったのが、ファシズム国家であったりカルト集団であったりするのは間違いないかと。そして最近、そんな純粋まっすぐさんが、実はこの日本社会に増えてきている気もするのです。
 私のように常に懐疑的でいる必要もないのかもしれませんが、常に「本当にこれが正しいのだろうか」とかくされた悪を注意深くこばむこと。そして、嫌なものは嫌と言える勇気を大切にしていくこと。それが小さな家族や集団であれ、大きな社会や国家であれ、正しく良い人生を生きていく上では大切なことなのではないかと、改めて感じさせられたのでした。(2010/9/27)

夢みる強さ(劇団道化座「幸せのゆくえ」感想)
 先週末は、久々のお芝居のはしご。夕方に見たのが劇団道化座「幸せのゆくえ」でした。私は知らなかったのですが、この道化座は創立60周年、日本のみならず海外でも公演しているらしいのですが、所在地が神戸市灘区。ご近所でこんなことをやっていたんですね。まずはそれが驚きでした。
 お話のあらすじは、「道化座版リア王」ということで、おじいちゃんが息子や娘に見捨てられて放浪の旅に出る、というもの。セットや照明、舞台転換などはどちらかといえば昔ながらのお芝居風で、気分のんびりと観ていたのですが、役者さんが要所要所で上手く締めており、少しずつ劇の世界の中へ。主演の杢太郎(≒リア王)の方はその苦悩が伝わってきましたし、一緒に動く聴覚障害を持つ少女ハナコ(≒道化)のその愚直さや素直さは心に迫るものでした。特に良かったのが、最後の「夢オチ」が分かった後のハナコの表情の変化。どういう意図で演出を付けたのか分かりませんが、まず最初は「本当にこれが夢で良かったの」というがごとく複雑な表情をしているものの、徐々に「こうして夢を見て、信じあっていかないと人は生きていけないんだ。幸せにはなれないんだ」と確信するかのごとく柔らかい笑顔で家族を見つめていくのです。ハナコという名前が、杢太郎のもと奥さんの名前と一緒であったという伏線も、ここに生きてきます。
 振りかえってみれば、現実社会というのはあまりにも過酷です。特に身寄りのないお年寄りがどうやって生きていくのか、何を目標に生きていくのか、一生シングルが多くなってきた私たちの世代においても大きな課題となってくるのは間違いありません。決して逃げではなく、何かを信じ、何かを夢見る力と強さ。家族や地域や物語が弱くなってきている時代に、その力と強さをどうやって手に入れて、どう維持していけばよいのか。軽いテイストで演じられた一方、そんな重い課題が突き付けられたような気もした好作品でした。(2010/9/29)



←2010年4月〜6月へ
2日へ1回日記目次へ
2010年10月〜12月へ→

いそべさとしのホームページへ


いそべさとしのホームページ Copyright with S.ISOBE(2010)(isobe@isobesatoshi.com)