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過去の「ほぼ演劇日記」 保管庫(2013年4月〜6月)


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劇団 磯部聡、 次回公演のお知らせ

 現代を鋭く暖かく切り取ると評判の演劇ユニット、「劇団 磯部聡、」。この度、その次回公演をお知らせできる運びとなりましたので、お伝えします。

[タイトル]

「また20年、桜の下で。(仮題)」

[あらすじ]

私の住んでいた町では、20年に一度、大きなお祭りがおこなわれる。

ちょうど20年前の春、高校3年生だった私たち5人は、
満開の桜の花咲く校庭で約束をした。
この1年間、最後の青春として精いっぱい演劇コンクールに取り組み、
それが終わったら受験勉強を頑張ろうと。
そして、20年後、またこの場所で再会を果たそうと。

それから20年。

いまだに女優になる夢を東京で追い続けている美和。
外資系製薬会社のキャリアウーマンとしてがむしゃらに働いてきた麻衣子。
事務職の公務員をしながら独身生活を謳歌している裕香。
素敵な御主人と子ども2人の家庭の主婦におさまった明子。
そして、18年前、アパートの下敷きとなってしまった英子。

2013年4月。
20年に一度のお祭りに湧く町で、私たちは出会う。
またあの桜の木の下で。

[作・演出のことば]

姫路に伝わる20年に一度のお祭り「三ツ山大祭」に触発されて、このお話を作りました。観客の皆様が暖かく幸せな気持ちで一杯になってもらえるよう、暖かくハートウォーミングなお芝居を目指して、精一杯頑張ります!

[日時・場所(予定)]

2033(平成45年)4月1日(金)午後6時40分 開演
関西州立尼崎中高年創造劇場(ポックリシアター) 中ホール

[出演(予定)]

高校生パート:ピッコロ演劇学校本科50期生ほか
アラフォーパート:ピッコロ演劇学校本科30期生ほか

[詳しくは]
気が向いたら、来年のエイプリルフールにでもお伝えします(*^_^*)
(2013/4/1)

観劇、演劇日記、スランプ中なう。
 しばらく観劇とこの演劇日記がスランプでした。まあ、理由はある程度は分かっているのですが、ぼちぼち40歳も終わりですし(苦笑)、ぼちぼち解消していこうかなと。
 ちなみに、行くだけ行って感想を書いていないのは、次の作品たち。ツイッターやらFacebookやらには感想を書きちらしているものもありますので、ぼちぼち拾ってまとめていきますね。
 しかしまあ、観劇というのはそれだけでも結構、精神的体力を使うものなのだなあと改めて感じられたのは貴重な経験だったかなと。少しずつ平常運転にもっていきますね。(2013/4/18)

それでも私は、生きています。
(ピッコロ演劇学校研究科29期生卒業公演「新天地へ 〜ある移民の物語〜」感想)

 さて、1か月以上も前なので、思い出しながら書きますが…。今年のピッコロ演劇学校・舞台技術学校「合同卒業公演」、研究科と本科を合わせると休憩時間込で約4時間という長丁場。楽日は更に修了式まであるので延べ5時間を超えました。人数が増えたから仕方ない部分もあるものの、なかなか見る側にも体力を要求するなと。とはいえ、前半が濃厚な研究科のお芝居、後半がどちらかといえば軽やかな本科のお芝居なので、それほどしんどいということもなかったです。で、まずは研究科。
 今回はオリジナルの群像劇。1912年のアイルランドが舞台。土地が衰えていく中で新世界・アメリカへの移民に夢をつなぐ人々と、それでもなお村に残る人々。そして、船に乗って新天地を目指した人々が乗った船はタイタニック号…。というお話でした。実際に原作というか下敷きとなる手記があったそうですが、基本的にはオリジナル。人々の思いが交差しつつ、時にはすれ違ったりぶつかったりしつつ、見事に描かれていました。どこか暗めな照明と舞台美術も、実に時代背景を映し出していました。
 みなさん研究科生なので、当然それぞれに演技はしっかりとしたもの。知り合いの中で、特にこの1年で演技に伸びが見られた方も多く、それはそれで嬉しい限り。そして、個人個人の演技もさることながら、集団としての一体感や信頼感が垣間見えて、それが厳しくも暖かい「村」の雰囲気を作り上げていました。この村も、研究科29期生も、もちろん厳しいこと、つらいことはたくさんあったんだろうけど、だけどもそこに暖かい心の交流がしっかりとあったからこそ乗り切れたんだろうなと、そんな感じも受けたのです。
 25人という研究科史上ほぼ最大人数のお芝居、最後の数分間は生き残ったアンの一人語りで幕を締めます。「それでも私は、生きています。」と。確かにそこに希望の言葉はありません。でも、彼女は、生き残ったアンジェラやモイラは、そして残された村の人々は、こんな悲劇があっても、ひとりひとり静かにしっかりと生き続けていくに違いない。失った人々の思いをどこか胸に秘めながら。一人語りの前に提示された世界が、そんな確信を与えてくれたのです。
 もう4月下旬に入り、研究科29期生の方々はしっかりとそれぞれの世界に向けて歩み始めているようです。もしかしたら、「新天地」にたどり着かないかもしれない、「新天地」は思っていた世界とは違う世界かもしれない。そんな厳しい中でも、「それでも私は、生きています。」という悲しくも力強い言葉をどこかで聞かせてほしいなあと、そんなことも思っているのです。(2013/4/21)

みんな生きてる、この空の下で。
(ピッコロ演劇学校本科30期生・舞台技術学校21期生卒業公演「この空の下で」感想)

 長丁場だったピッコロの卒業公演。後半に本科・研究科作品が来ました。原作というか、原案というかの「神はサイコロを振らない」が大好きなのもあって大いに期待していました。また本科30期は非常に個性豊かな役者さんが多く、それを生かす作品であったともいえます。
 2000年、忽然と姿を消した列車。それが2012年に突然戻ってくる。しかし、その戻ってきた乗客たちに与えられた時間はたったの3日間。その時、人々は何を考え、どう動くのか…。設定はSFチックであるものの、そこで語られるお話はどこにでもありそうな「日常」。そして、自分ではどうしようもない理不尽なことが襲いかかるというのもまた「日常」の一側面だったりもします。それを群像劇であったり会話劇であったりで、上手く表現していたなと思います。
 また、列車をイメージしたと思われる6つの四角い舞台装置が整列したり、あるいはばらばらに迷路のようにおかれたり、一直線になったりするのも、風景のイメージを観客がふくらませるのにぴったりでした。あえてコンクリート風の色に仕上げ、人々の服装もそれに合わせたのは、大成功だったかなと。最初はくすんだ灰色の世界が、徐々に色を取り戻してくる。照明や音響も合わせて、2時間弱の短い時間の中で「この空の下で」の世界を見事に作り上げていました。
 作品のテーマとは若干違うかもしれませんが、私が「この空の下で」を最も意識したのは例の世界一周の最終日、リマのショッピングセンターから太平洋を眺めていた時でした。凄くすごく遠い場所だけど、確かにこの向こうに日本はあって、同じ空の下で人々が笑ったり泣いたり悩んだり喜んだりしているんだなと、なんだかそんなことをしみじみと感じていました。日本に帰れば彼らに会えるし、それでもペルーやボリビアでもまたいつもの日常が繰り返されている。それはもう一度会えるかどうかとは全く関係ない。そんなことがとても貴重に感じられたのです。
 本科30期生の方、舞台技術学校21期生の方も、全員が集まって、同じ舞台に立ったり、同じ舞台を作り上げたりすることは、絶対に二度とありません。ただ、同じ空の下で生きているのは間違いないし、もし本人が生物学的に生きていなかったとしても、その思いは生物学的に生きている人々の中で生き続けているのも間違いない。そんな演出家や講師陣からのメッセージも感じながら、生き生きとした舞台を楽しんでいたのです。(2013/4/23)

柿食う客は伝統芸能である
(柿食う客「発情ジュリアス・シーザー」感想)

 「観劇スランプ」中だったので、1カ月以上、感想の方も観劇の方も途絶えてました。ちょっといろいろと整いつつあるので、再開の前に在庫一掃(苦笑)で感想を書きます。
 今をときめく小劇場界の旗手・中屋敷法仁氏が女優だけでシェイクスピア作品を描くこのシリーズ。東京ではチケットをとるのも大変そうですが、ここは大阪。ツイートを読んでいたらそこそこに楽しそうというので、前日に千秋楽チケットを購入しました。ある意味、観客としてはありがたいですな。
 作品としての盛り上がりはさすがのシェイクスピアで、中屋敷さんの演出もばっちりハマっており、役者さんたちも皆それぞれに個性的で、質の高い舞台でした。ただ、気になったのが、柿食う客独特の体の使い方や物言いが決して全員に共有されていないこと。もちろん一般レベルからいえばどの女優さんも相当にすごく、熱演はよく伝わってくるのですが、それでも七味まゆ味さんや深谷由梨香さんの演技を見てしまうと、やはりどこか「借り物感」や「背伸び感」が否めない。そしてそれが猛烈な違和感となってしまうのです。
 ある意味、柿食う客は能や歌舞伎のような伝統芸能になってしまっているのではないか。もちろん、それはそれで演劇の一つの解法ではあるのだけど、さてここからどれだけ豊かな世界を築いていけるのか。あまりにも中屋敷さんが時代の寵児化されつつあるだけに、多少不安でもあるのです。(2013/5/11その1)

30年前の予言か、30年間変わらぬ何かか。
(ピッコロ劇団「寿歌」感想)

 阪神間の演劇関係者にとっては「塾長」の印象も深い北村想氏の代表作。私自身も題名と話のあらすじだけは知っていたものの演劇としてみるのは初めて。
 一見淡々と進むものの、徐々に重層的なテーマが広がってくるのはさすが名作。見れば見るほど東日本大震災のことを描かれているのかと思ってしまい、ちょっと調べてみると、この作品は阪神・淡路大震災よりも、チェルノブイリ事故よりも前の1979年ということである意味びっくり。作者自身、「自分がいったい何を書いているのかよくわからなかったものの評価されてしまったが、現代になってやっと分かる話になった」(自作解題『寿歌』)としていますが、確かに作家の才能というのは自分自身の理解の範疇を越えてしまう時があるのかもしれません。
 練られた演技をみせるゲサクとヤスオの間を縦横無尽に走り回るキョウコの疾走感が、作品に更なる深みを与えていたように感じました。実はこのキョウコ役、もともとは野秋裕香さんが出演の予定が、けがということで急きょ杏華さんが出演になったもの。突然のキャスト変更に対処した劇団と演出家の力量も感じられました。その一方で、独特の魅力をもつ役者さんでもある野秋裕香さんバージョンもいつか見てみたいなと、そうも思っています。
 コンピュータ同士が勝手に続ける戦争、放射能で汚染された土地、明らかに未来が衰退の方向へ向かっていく社会、その中でもただどこかに向かっていこうとする人々…。これは30年前の予言なのでしょうか、それとも30年間変わらぬ何かなのでしょうか。そんなことも考えてしまう作品でした。(2013/5/11その2)

ごめんなさい、分からなかったです。
(ピッコロ劇団「私のかわいそうなマラート〜焼跡のワルツ〜」感想)

 「感想」とは書いたものの、正直、この作品、全く心にも記憶にも響いてこなかったんですよね…。いつもなら悪いならば悪いなりの感想なり感情なりが湧いてくるんですが、それもなかった…。最初に3人の関係を誤って捉えてしまい軌道修正できなかったというのもあるのですが、おそらくそれだけではないなと…。
 この日はちょうどピッコロ恒例の花見があり、その際にこの作品を見た人々ともお話したのですが、皆さんにとってはかなり感じるところもあった様子。ネット上の感想を見ていてもやはり「良かった」という感想が結構あり、どうも自分の方の受け取る側に大きな問題があったのだろうなと思わざるを得ません。
 ロシア物にいまいち慣れていないというのもありますが、むしろそれよりも、自分でも気付かないうちに精神的に疲れていたのかなと。年度末、年度初めでいろいろとないわけでもなかったし、最近、公私ともども行き詰まり感が非常に強いし…。ということで、しばらく意図的に観劇をお休みしておりました。そして、5月10日に(おそらくそこそこに楽しいだろうなという期待を込めて)劇団ウンウンウニウムを見に行き、それなりに楽しみつつ、いつもの通り酷評したい部分も感じたりして、無事、復活の運びとなりました(笑)。(2013/5/11その3)

彼女はクソビッチではない、明らかに。
(劇団ウンウンウニウム「世界は彼女でまわっている 〜純情可憐なクソビッチ」感想)

 久しぶりに1カ月以上のインターバルを置いての観劇となりました。友人が出演していた劇団ウンウンウニウムの新作です。以前、「次回作はクソビッチ」と聞いていたので、それなりに期待しておりました。で、期待を裏切らない出来だったなと。
 とりわけ良かったのが、主役のぴの(長濱愛美)さん。劇団主宰で、作・演出のトキ氏は(決してあからさまではないものの)畳みかけるようなセリフ・シーンが多く、それを毎回新鮮に演じるのは役者にとってかなり高いハードルだと思うのですが、それを見事に自分のものとして演じておられました。前回の作品では、ここまでの役者さんとはちょっと思ってませんでした。この作品は概して女性がみな個性的に描かれており、新人役の山盛由香さん、ナレーター役の姫草菜摘さん、そしてベテラン劇団員の一色美緒さんと藤浪加奈さんなどが印象に残りました。
 その一方で、男性の描き方がみなステレオタイプというか、面白くないというか…。準主役の海人(今井梢平)さんは良くも悪くも器用なのでうまく動いておられましたが、他の男性陣は頑張っているのはよくわかるんだけど正直しっくりこない。クソビッチが全員と寝たことがあるんだったら、もっと徐々にお互いの関係性がギスギスしてきて当然だし、その忍び寄るサークル崩壊の恐怖をじっくりと(あるいはあっさりと)描けばよかったと思うのだけど、そういうシーンも空気もない。短編ならば「焦点はクソビッチオンリー」でもいいと思うのですけど、あれだけの人数、2時間弱というそこそこに長い尺を考えるとそのあたりは考えてほしかったかなと思います。
 スタッフワークは、これも申し訳ありませんが、とても及第点をあげることはできません。見たのは初日でしたし、演劇専用ホールではないので難しいところも多々あったとは思うのですが、さすがにあれでは一生懸命やっている役者さんと見に来ているお客さんに失礼。できないことはできないと他に助けを求めれば、これだけ人数もおり歴史もある劇団ですから、絶対に無償でも手伝ってくれる方はいるはず。舞台セットももうちょっと考えてほしかった(少なくとも真正面にバッテンで蓄光テープを貼るのはなし)と、正直思います。
 ということで、結構厳しいことを書いていますが、実際はクソビッチ・ぴのさんのかわいさと怖さに翻弄されて、とっても楽しい2時間であったのも事実。脚本が持つ疾走感と個性豊かな女優陣を今後どのように活用してどんな作品を見せてくれるのか。それもまた、楽しみなのです。
 ちなみに、彼女はある程度計算していたことが最後に(途中にもちょこちょこと)示されるのですが、本当に怖いのは自分が自分を完全にだましきっていて、それが周囲に大いなる悪影響を与えているにも関わらず、それに全く気づいていないイノセントな女の子かなあと。そういう意味では愛美ちゃんは計算高くはあるけれど、「自分の夢(?)に向かって一生懸命生きている、素直な女の子」と言えそうな気もします。そんなことも考えつつ、おっさん二人で夜の道頓堀へと消えて行きました(単にラーメン食べに行っただけですけどね)。(2013/5/14)

ロボットにおける本当の幸せとは何か
(大阪大学ロボット演劇プロジェクト×吉本興業「ロボット版 銀河鉄道の夜」感想)

 大阪駅前に突如(?)登場した「グランフロント大阪」。その中核施設・ナレッジキャピタル内にナレッジシアターなる380人規模のホールがオープン。そのこけら落し公演として、平田オリザ氏の「ロボット版 銀河鉄道の夜」が上演されました。吉本興業とのジョイント企画ということで、青年団の女優陣に加えて吉本所属のタレントさん達も。せっかくなら知っている人を見たいということで、「ロケみつ」で有名な桜 稲垣早希さんの出るバージョンを見に行きました。明らかに彼女のファンという男性陣も多くて、普通の青年団演劇の客層とは相当違った感じではありました。
 ロボット演劇、「ロボット版三人姉妹」、「パノラマ〜鉄道編〜(これは一部だけ)」と3回目でしたが、今回はロボットがカムパネルラ役をやるため、基本出ずっぱり。そして、あまりロボットならではの苦悩や問題といったものは描かれず、と言いながらもやはり自分も周囲もロボットであることを意識しているような会話も多くて、ちょっと不思議な感じでした。「ロボットでないと描けない世界」ではなく「ロボットで演じてみた人間や異界の世界」ぐらいのライトな感覚だったかなと。まあ、こけら落としなのでそれで十分なのかもしれません。
 役者さんでは、ジョバンニ役の紙本明子さん(公募で選ばれた方)が熱演。青年団の役者さんとは明らかに違った演劇メソッドを持たれているのですが、逆にそれが、ある意味周囲から浮いた存在であるジョバンニの立ち位置とも相まって、非常にいい効果を与えていました。また、桜 稲垣早希さんも、決して浮くことはなく、しっかりと女優としての役割を果たしておられました。鳥採りのシーンだけはちょっとアスカ入ってるかな〜と思いましたが、そもそも鳥採りのエピソードは多少けれんみがあってしかるべきですから、決していやではありませんでした。
 ロボットが何度もかたる「本当のしあわせとはなんだろう」。人間に尽くすために生まれてきたロボットとしては、ザネリを救って命(?)を失ったことは本当のしあわせなのかもしれません。ただ、当初の目標(人間に尽くす)が本当の幸せにどれぐらいの意味を持つのか。そう考えると、またこの作品に対する新しい解釈やら、平田オリザ氏がカムパネルラをロボットにした意味やらの糸口が見えそうな気もするのです。(2013/5/17)

圧倒的な空気感で描く、どちらでもない世界
(sputnik.「宿酔 〜やどよい」感想)

 ピッコロの友人が所属しているsputnik.のお芝居を見てきました。場所はカフェスローオオサカ。これまではウンウンウニウムかその関連のprojectSMLのお芝居しか見たことなかったので、あの空間をどう使うのかなというのも一つの楽しみでありました。
 とにかく、客席に座った時から圧倒的な空気感。美術が「リニューアルされた古い公営住宅」を雰囲気やくたびれ具合まで見事に表現しています。そして、中二階(?)を開かずの間として使ったのもお見事。あの空間の雰囲気を生かしつつ、それを見事に脚本や舞台装置や立ち位置や照明や音響やに生かしていました。その全体が醸し出す空気感は圧倒的。もちろんお芝居もかなり面白かったのですが、何よりもその雰囲気・空気感に圧倒されました。
 決して居心地がよくはないのだけれど、どこかおさまりや秩序を感じる世界と物語。所々に「いかにもこれは伏線だよ〜」というセリフが散見されて多少興ざめもしたのですが、確かにあれぐらい言わないと90分では語りつくせないのかも知れません。お話にせよ、登場人物(出演者数)にせよ、多少詰め込み過ぎの感はあったのですが、あの空気感はそれを圧倒していました。こんなお芝居のやり方・作り方もあるんだなーとちょっと勉強になった気がします。
 主演の前田ひとみさんは、だらだら・ぐでぐでと(?)熱演。やはり彼女の存在感がこの作品のキーだなあと。合わせて多彩な客演陣もそれぞれに個性的でしたが、sputnik.メンバーの川上立氏、巽由美子氏、土屋甫氏が安定の演技できっちりと締めており、その点も安心。とりわけ他人のセリフにかぶせての物言いがとてもきれいで、ある意味青年団(平田オリザ)の手法を思い出したり。もちろん物言いの手法も雰囲気も全然違うのですけどね。
  決して後ろ向きでも前向きでもなく。とってもありえない世界であり、実はありそうな世界であり。ただ淡々と時と物事は過ぎていきそうな、これから大きく時と物事が動いていきそうな。もしかしたら、この世というのはそんなものなのかもしれません。それを、この舞台全体をくるんでいた「空気感」という、見えないけど確実にある何かで描きだしたsputnik.。また違う作品も見てみたいと思ったのです。(2013/5/19)

扉の、むこう。
(伊丹想流私塾第17期生「door」感想)

 アイホールの「伊丹想流私塾」。公営ホールが取り組む脚本塾という、ピッコロ以上に変わった取り組みでもあります。その17期生の作品発表会(?)がありましたので行ってきました。それぞれ10分程度の小作品を「舞台上にドアだけ一つ」というお題の下に作り上げていました。
 個人的に好きだったのは、「カイコの卒業式(田窪泉氏)」。ドアを主題にはしていなかったのものの、前向きな分かりやすいお話でした。昆虫館、そしてトランクというのが、空港都市・伊丹っぽいなというのもアドバンテージでした。東日本大震災の津波をモチーフにしたと思われる「ヲチコチ(岡田りく氏)」は、高齢者の男女を取り上げた、なかなか濃厚な作品。わりとどろどろしたお話なれど、うまく(決してきれいにではなく)まとめていたなと思います。失踪者を死んだものとすべきか否かという、ある意味、前向きと後ろ向きが錯綜する「凍て雲の、下で。(山本彩氏)」は実に演劇らしい作品。もうちょっと続きを見てみたい、あるいはこの前半を見てみたいという気にさせられました。
 いろいろと見ていて思ったのですが、短編というのはやはり「余韻で語る」んだなと。状況説明をしすぎたり、あるいは予定調和を作ろうとすると、あざとさというか、教科書的な嫌らしさというかが、残ってしまうのです。語り過ぎず、かといって全く分からないままで終わらないようにしつつ。なかなか難しい課題にも感じますが、多くの作品でそれがきちんと考えられていたようにも感じます。そして、一つのdoorというお題だけでこれだけいろんな物語が紡ぎだされるというのは面白いなと。さて自分だったらどんな物語を作ったかな…とちょっとだけ考えてしまいました。まあ、その才能も覚悟も、とてもないんですけどね。
 最後に、なんとなくあのドア、ドラえもんのどこでもドアのように感じてしまいました。扉を開けた、その先は、未知の空間へとつながっている。実はあのマンガ、なかなか恐ろしいモチーフをさらっと扱っているのかなとちょっと思ったりもしてしまったのです。(2013/5/25)

進化し続ける、演劇
(ノンバーバルパフォーマンス「ギア-GEAR-ver.3.0」感想)

 去年の4月1日から京都でロングラン公演を続ける「ギア」。そのver.3.0を見に行ってきました。近くの京都文化博物館で「インカ帝国展」が開催中だったので、それとあわせてみたのです。インカ帝国展は本当に懐かしいことが多く、マチュピチュの模型や映像を見ながら「ここではこんなことがあったなあ」「こんな話をしたなあ」「この坂は大変だったなあ」などと、いろんなことを思い出しながらの見学でした。
 この日は混むことが事前にアナウンスメントされていたので、座席指定のために1時間前に会場へ。と、そのために行列ができ上っていました。思えば1年ちょっと前のver.1.0の初回公演は1時間前に行ったらスタッフさんの方が多い状況。さっと一番前・通路横の席を取れたのです。本当に人気が出てきてよかったなあ、ここまで続いてよかったなあと、我が事のように嬉しくなってしまいます。
 さて、作品ですが、ver.3.0になって一番変わったかなと思ったのがプロジェクションマッピング。巷でも流行ってはいるのですがギアはさらに磨きがかかっており、その細密さは常設・ロングランならでは。種明かしになってしまうので言えませんが、かなりとんでもないものまでマッピングしてしまいます。また、ギアの世界感が全体として中国・アジア系の多国籍から、欧米系の多国籍になった印象。オープニング映像の変更や、衣裳が変わったことも大きいかなと思います。一方、使われている小ネタや題材は日本的なものが多くなった印象も。「外国人相手にアピール」という意気込みは多少後退した感じもしたものの、京都に来ている外国人の方は多かれ少なかれ日本に高い興味・関心があるわけで、変に分かりやすさを気にするよりも日本的な世界を描き切ったほうが喜ばれるのかなとか。そんなことも感じました。
 今回一番印象的だったのが、ドールの違い。実は私、過去3回のギアは(狙ったわけではないものの)全て兵頭祐香さんドール。で、今回は初の平本茜子さんドールだったんだけど、いい悪いではなくて、印象が全然違う。兵頭ドールは無国籍で透明。感情のないところから、それがどんどんと生まれてくる物語。一方、平本ドールは、関西の元気な女の子風でビビット。最初ややつっけんどんに始まって、徐々になじんでいき、最後はロボロイド達と一緒になって高い感情レベルで遊びまくる。で、その楽しかった時間は、決して夢なんかじゃなくて、ちゃんと存在したものなんだよ、という物語。Ver.1/2とVer.3の違いかもしれませんが、やはりドール役の役者さんの個性によるところも大きいのかなと。ということで、ギアVer.3、次は何としても和田ちさとさんドールを見に行かなくてはなりません。こんな楽しみも、まさに複数キャストのロングランならではでしょう。
 明らかに大きな歯車は動きだしました。さらに大きく、そして細かく変化と進化を続けるギア。京都の、そして関西の、貴重な財産になりつつあります。(2013/5/31)

さあ、舞台へ。
(演劇ユニットぷらすおん「楽屋」感想)

 友人が出演しているということで見てきました。「楽屋」という作品は前の「寿歌」同様、タイトルとあらすじだけはなんとなく知っていたのですが、ちゃんと見たことがなかったので、一度見てみようかなと思ったのもありました。
 この作品、どうにでも演出できるそうで演出家の腕の見せ場だそうですが、前半、女優AとBのやり取りがあまりにも面白くなく、本当にどうしようかと思ってしまいました。正直、見ているのが苦痛になるほど。ところが、そこに女優D、さらにはCが入ってくると、急に物語が動き出し、A・Bの前半のだらだら感がむしろ「何にもないだらだらと続く時間」という背景となって浮かび上がってくるのです。もし狙ってやったとすれば、かなりの演出だなあと。最終的には三人姉妹だのかもめだののセリフが、きっちりと伝わってきました。
 舞台装置はあんなものかなと思うのですが、照明が要所要所でいいアクセントを与えていました。音響は、選曲にある意味統一感がないものの、なんとか頑張っていたかなと。表方のスタッフが異常に多いのは、神戸の劇団の特徴?よく分かりませんが。
 今回一番の見せ場だったのは、中央やや上手寄りに時折現れるカットされた明かり。おそらく舞台袖によく置いてある姿見をイメージしていると思うのですが、そこで各出演者が見せる「女優になる」姿はそれぞれに凄味があり、インパクトのあるものでした。役の大小、生きているか死んでいるか、過去が良かったのか悪かったのか、今を満足しているか否かに関わらず、舞台に上がればみな「女優」。その潔いまでの残酷さとそこに向かう決意の強さとが、また自分を魅了し続けるのです。(2013/6/1)

宝島と宝物と掘ることと埋めることについて
(南河内万歳一座「宝島」感想)

 知り合いが出ている&知り合いがみんな見に行くということで、久しぶりに平日の晩観劇となりました。初日です。会場にはどこかで見たことのあるような顔多数。そのあたりは、さすが南河内だなあと。
 この話、長崎県の軍艦島が大きなモチーフになっているのですが、実は私、大学生の時に一度忍び込んだことがあるのです(流石にもう時効でしょう)。今のような管理された見学とは違い、完全自己責任の世界での侵入。そして、本当に生活感が残ったままの建築群を体感しました。どこか長崎の教会群にも通じる神聖なものを感じて帰ってきたのを良く覚えています。
 軍艦島の場合はもともと有った石炭を黒ダイヤとして掘っていたのですが、普通の宝島は、誰かが埋めたり隠したりした宝物を掘りだすことによって、宝島として成立します。逆に言うと、誰かが埋めて、誰かが掘り出さないと宝島にはなりえないのです。埋める作業と掘る作業、どちらが能動的でどちらが受動的というのではなく、能動的にも受動的にもなしえます。そして、私たちが今生きているこの社会(小劇場界を含む)が宝島ではないのは、埋める作業がないからなのか、あるいは掘る作業がないからなのか。そんなことも訴えていたような気がしました。(ちなみにこの作品は「宝島」というかなり力の入ったタイトルだった故か、非常にいろんなモチーフが含まれていたように感じます。全て気がつけたかどうかは、多分に疑問ではありますね…。)
 私たち以前の世代にとって、軍艦島が有名になったのは恐らく公共広告機構のCMでしょう。さきほど、このCM久しぶりに見たんですが、なんと一言目が「島は宝島だった」なんですね。今回のタイトルはここからきているのかもしれません。そして、CM中で「石炭を掘りつくした時…」と言っているのですが、実は石炭は掘りつくしたわけではなく単に石油と比べて採算が合わなくなっただけで、まだまだ埋蔵されていると聞いています(ただ坑道がすべて水没してしまっているので再開は限りなく困難だそうです)。宝物だと思っていても、それが宝物になるかどうかは、あくまでも社会的評価や価値に寄ってしまいます。それをさびしいと感じるのか、あるいは社会的評価や価値を越える宝物を探すことに労力を費やすのか。それはあくまでも個人個人の判断なのかも知れません。(2013/6/16)

韓国・在日を舞台に普遍的なものを描いた大作
(May「凍れる夜」感想)

 いろいろと面白そうな作品があったこの週末、角屋(千林大宮商店街にある有名なかき氷屋さん)の魅力もあって、つい選んでしまったのが大阪芸創館で行われていたMayの「凍れる夜」。会場に行くと、劇団員に在日韓国・朝鮮人の方が多いということもあって、会場内でしゃべっている子どもたちの単語がいまいち分からなかったり、見知った顔に出会うと「オモニ〜」と声がかかったり、奥の席に移動するのに「ミアナムニダ〜」と言ったりと、普段とはちょっと違った雰囲気でした。
 とはいえ、題材こそ韓国の想像上の鬼である「トッケビ」を取り上げているものの、そこで取り上げられているテーマは民族だけにとどまらず、時間、日常、運命、家族、支配と被支配、信頼と不信、聖と俗…などなかなかに多元的で多層的なもの。あくまでも、韓国という外見を借りてはいるものの、それを超越しているものを描き出しているのです。このあたりがMayさんが関西の小劇場界でそれなりの評価を得ている部分なのだなと改めて実感しました。2時間半という、これも近年の小劇場としてはかなり長い上演時間でしたが、全く飽きることなく楽しませていたいたのです。
 役者で圧巻だったのは、舞台上で一切はけることなしに少女から老女までを一気に演じたユニ役のふくだひと美さん。あえて着替えや化粧を見せることで時の経過をより強く感じさせるという演出も見事でした。また、日常パート(?)の4人が落ち着いたいい演技をしており、特に姉ののたにかな子さん、管理人の斉藤友恵さんの存在・演技が、ともすればファンタジーに流れやすいこの作品のいいアクセントとなっていました。そして、子役の朴賢志さんと李珠里さんの自由奔放さもお見事。この座組の居場所のよさを感じさせるとともに、子どもも一人の仲間として受け入れている在日社会の暖かさもどこかで感じられたのです。
 照明、音響も見事でしたが、韓国風を表しながらも決して民俗調にはならず、それでいて不思議な世界観をきちんと醸し出していた舞台美術は愁眉。また、楽士の高庚範氏は単なるBGMではなく、この世界感を見事なまでに作り上げた立役者。最初はずっと楽士がいるというのは気が散るのかなと思い半信半疑だったのですが、最終的にその作り上げた世界の見事さには脱帽でした。
 いろんな見方ができるこの作品ですが、個人的に感じたのは「人(とりわけ在日韓国・朝鮮人という存在は)は運命(トッケビ)に翻弄されるもので、それを嘆こうが、それに抗おうが、それぞれはその人の決めることだけど、運命に翻弄されている自分がいるという事実だけはしっかりと見つめていこう」というメッセージ。前向きでも後ろ向きでもなく、ありのままの事実を事実として受け入れる。ともすれば虚無にも人間賛歌にもなりえるものだとは思います。ただ、それをどうするのかは、全て観客に向け入れられます。ある意味挑発的な作品かもしれないと感じました。
 一見ホラーのような、民族劇のような、そんな演劇の形態をとりながら、訴えていること・演じていることは実に普遍的であったような気もしているのです。そういう意味でも、一気に見きった2時間半ではありましたが、久々に見ごたえを感じた「大作」でした。(2013/6/21)

キャラメルボックス的なるもの
(演劇集団キャラメルボックス「ナミヤ雑貨店の奇蹟」感想)

 ピッコロの友人2名と一緒に、韓国から帰国の翌日に観劇。「ちょっとしんどいかも」とは思っていたものの、作品はいかにもキャラメルボックスという筋書き、セリフ、物言い、脚本、原作(有名作家のセカンド・ベストセラー的な小説)、ギャグ、ダンス、所作、舞台美術、舞台照明、音響、衣裳…。飽きることなく楽しく、それなりに笑い、それなりに心を打たれ、それなりにハートウォーミングな気分にさせていただいて終わりました。キャラメルボックスは良くも悪くも「名作保証」的な安心感はあるなあと再確認した感じです。
 東野圭吾氏の原作は知らないのですが、これまでのキャラメルの傾向から言うと、恐らく忠実に舞台化したのでしょう。ただ、小説に比べ格段に短い尺(それでも2時間15分あるが)の舞台では、多少詰め込み過ぎの感も。それぞれのエピソードが短い時間で入れ替わるので、見ている側からはどうしても謎ときパズルのような平べったい話になってしまって残念。キャラメルボックス流の盛り上げも、一度ドーンと来るならば気分が乗れるのですが、何度も来ると多少きついかなと。
 私が個人的にファンの前田綾さんは今回も素敵にご活躍。元気な役柄も好きなんですが、「薄幸の清楚な女性」も似合いますよね〜。原田樹里さんはその美少女ぶりをいかんなく発揮。そして、今回の主役・西川浩幸さんの抑え気味ながらも渋い演技は見ものでした。脳梗塞からの復帰後、多少無理ある役柄も多かった気がしますが、今回はむしろその経験を役作りに生かされたのかなと。また、キャラメルオーソドックスではありますが、舞台美術と音響(選曲)も高レベルだったと思います。
 初キャラメル観劇だったピッコロ友人いわく「ときどき独特の物言いなり所作なりをする演劇学校生がいるが、なるほど、これなんだなーと分かった」とのこと。確かにキャラメルは小劇場の中でも独特の方法論な気もしますが、独特と言うにはキャラメルボックスはあまりにもメジャーすぎる気もします。その功罪は、まあ演劇教育家や演劇評論家に任せることにして、自分としてはまたこうやって仕事帰りにキャラメル的な世界を堪能させてもらおうかなと思っているのです。(2013/6/23)

泣いても笑っても30,000日
(劇団ピエロdeピエロ「船乗りシンドバッドになれなかったお父さんに?捧げるバラード」感想)

 ピッコロの友人が出演しているというので、観劇。久しぶりの中津芸術文化村ピエロハーバー。阪急中津駅に降りたときから怪しい雰囲気で、外国人が普通に歩いていたりと、なんとなく独特な雰囲気。ピエロハーバーはさらにそれが増幅された感じで、個人的にはどうも慣れませんね…まあ、こういう雰囲気が好きな人には堪らないんでしょうけど…。ちなみに、劇団ピエロdeピエロは「座・大阪市民劇場」のOB・OGが結成した劇団とのことですが、知り合いが所属している団体は「SS Zakkadan」だし、他にも「ナカ・カルチャー・ワールド」という団体もあるらしいし、そのあたりの混沌さもまたアジアなのかも知れません。
 お話はコメディーメインで、多少人情もの風味といったもの。役者さんは個々には上手な方もいらっしゃったのですが(お母さん役の塩竃葵さんとか船乗りAの内海千春さんとか)、あまり演出が個別の演技を指導しないのか、思いっきり玉石混交。特に舞台に出たときの緊張感があまりにもない、あるいは役ではなく素に戻っている(恥ずかしがっている?)役者が散見されました。この手のコメディや人情ものはやる方が本気にその世界に没入してくれていないと正直、見る側は大変しんどいです。アドリブだの多少の遊びは、それができたあと。この劇団の目指している方向性はよく分からないのですが、いずれにせよ、市民劇団であろうとプロであろうと、それなりの入場料をとってそれなりの時間を費やしてきてもらっている以上は(役者もスタッフワークも受付も含め)全員が一定以上の水準にないときついと、あえて言っておきます。
 とはいえ、主役の方やメインキャストの方はしっかりしており、テーマも決して高邁深遠で複雑怪奇なものではなかったので、全く分からなかった、楽しめなかったということもなかったです。なので、最後の方のお父さんのセリフや行動はすんなりと理解できました。泣いても笑っても人生は高々30,000日で、そのうち3分の1は寝ていて、3分の1は仕事をしている。残りの3分の1をどう過ごすかだ…。人生を「消費する立場」から考えるというのはある意味面白い発想なのかなと。「本当の自分」やら「生きる目標や生きがい」を探すよりは「与えられたこの時間の有効活用方法を考えよう」という方が現代の日本人には向いているのかもしれません。この作品を見ながら、ちょっとそんなことも考えていました。(2013/6/29)

「なれたらいいな」のあと
(東宝ミュージカル「マイ・フェア・レディ」感想)

 おけぴで「宝塚・ロミジュリのチケットないかな〜」と探していて、見つけてしまったのがこの「マイ・フェア・レディ」。吹奏楽のメドレーで知り、オードリーヘップバーンの映画を観たのが恐らく中学1年生の時。とにかく中一男子にはインパクトが強く、それいらい印象的な作品にはなっていたのですが、ミュージカル本体を見る機会には恵まれていなかったのです。ということで思い切っていくことに。会場はオリックス劇場、旧大阪厚生年金会館。実は初めて。エントランス部分は綺麗になっているものの、やはり作りにせよ細かい部分がいろいろと古い劇場だなと…丁寧には修繕されているのですが…。2階席からはちゃんと見えないらしく、大人にも座席上げのためのクッションが配られており、1列目は誰も座らせていませんでした。
 さて、お話はあまりにも有名なので割愛しますが、思ったことのひとつが、「今このお話を新たに作ったら『政治的に正しくない』と非難されそうなお話だなあ」と。上流階級が庶民階級を馬鹿にするような話やら歌も多いですし、同じく男性が女性を馬鹿にしているものも多い(そのしっぺ返しも、この作品の大きなモチーフですが)。ラストシーンも永久就職的な終わり方ですし。1950年台、さらに原作は1930年台という時代背景を考えれば、これぐらいが普通(あるいは普通よりも進歩的)だったのかもしれません。
 大金持ちになっても依然として貧民街に住み続け住民からも慕われているイライザの父親と、自分の夢のためにいろんなものを身につけたことにより(そして貧民街に住んでいたことに対して「手も顔もちゃんと洗ってきた」ことにより)もう受け入れてもらえないイライザというのは、ある意味非常に示唆的です。無邪気な「なれたらいいな」を叶えることが、本当に幸せなのかどうか。誰もが(とくに若者が)無邪気に夢を持つこと、それを叶えるために努力することが異常に推奨されてしまっている現代からみると、逆にある意味、批判的・風刺的に取れなくもありません。
 と、そんなことを考えているのはおそらく私ぐらいで、素晴らしいナンバーの数々はさすが超が付く名作ミュージカル。日本語の訳詩も日本初演50年を越え、さすがに練られており、おかしいところがほとんどありません。石畳とフローリングを照明で変えて見せた床面の工夫にも感服。そして、真飛聖さんの可憐かつ元気なイライザと、一本気なヒギンズ教授の寺脇康文さんもとっても良かったです。そして、アンサンブル(とくに貧民街の人々)が実に生き生きとしており、本当にここが居心地のいい場所なんだなというのがしっくりと伝わってきました。四季以外でも日本のミュージカルは本当にレベルが高い(&日本人にしっくりする方向に調理するのが得意だ)なあと思います。
 ちなみに、この作品、原作では全く終わり方が違うらしく、そちらの方が現代的な気もします。(参考:「マイ・フェア・レディの真実」)その一方で、こういうシンデレラストーリーにあこがれる女の子や男の子がいるのもある意味自然なわけで、政治的に正しかろうが間違っていようが、せめてお芝居の中だけでは夢を見てもいいかなと。そんなこともちょっと思ってしまったのでした。(2013/6/30)



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