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過去の2日に1回日記 保管庫(2012年10月〜12月)


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LCLの中の多様性の先へ
(笑の内閣「非実在少女のるてちゃん」感想)

 最近の演劇界には珍しく、非常に政治性の高いネタを爆笑の中で取り上げる京都の劇団「笑の内閣」。数年前に東京で上演拒否にあったことを一種の勲章(?)に、とうとう駒場アゴラ劇場を含めた全国4都市ツアーを敢行してしまいました。最後の大阪会場に行ってきました。
 基本は、東京都の青少年県税育成条例改正案に出てきた実にキャッチーな名単語「非実在青少年」をネタに、マンガ・アニメ規制をしようとする東京都知事・石綿珍太郎一行と、これに対抗する「のるてちゃんときもオタバンド」のメンバー。内閣恒例の討論会シーンがあったり、規制派の陰謀でのるてちゃんが逮捕されるシーンでは中島美幸の「世情」が流れたり、ラストシーンはそのままエヴァンゲリオン第26話(テレビ版)だったりと、あっという間の楽しい観劇でした。武田先生役の小林まゆみさんが正統派の演技で好演。前回ヒロインだった鈴木ちひろさんもすっかり腐女子になって違和感なく存在していました。今回(今回も?)、出演者は男性の方が多いのですが、のるてちゃん役の伊集院聖羅さん、阿久根智哉子役の焼酎ステラさんも含め、女優さんの方が印象的だったかなとという気もします。まあ、少ない方が目立ちやすい(女性中心の座組だと、どうしても男性の演技に目が行くのの反対)からかもしれません。)
 規制の良し悪しについては、立場上、こういう公開の場で自分の意見を述べることは差し控えますが、「18歳までは異性のことや性のことについて何も意識せずに、18歳になってから突然性に興味を持って、異性と付き合って結婚して、どんどん子どもを作ってくれというのは、あまりにも矛盾していませんか」という台詞には思わず納得。大人であっても、そもそも自分がいま求めているような健全な青少年時代を過ごしてきたと誇れる人は決して多くないはず。大事故につながらない程度のちょっと小さな脱線を繰り返しながら(そこが難しいのですが)、その中で自分自身の性の有り方を決めていくしかなく、そして、その決定したことに対してはある程度は寛容な社会であってほしいなあと願ってもいるのです。
 現代の日本は、着く職業を生まれつき決められてしまう人も少なく、また上位の学校への進学もある程度は自分の意思で決めることができ、さらに女性だからと言って社会的に低い地位に留め置かれることも少なくなり、障害者の社会参加も進んできて、かなり個人個人の自己決定や自由が認められる時代になってきています。ただ、それが「戦って得られた」というよりは、なんとなく外圧や社会構造や経済構造の流れの中でそうなっていった側面もあるように感じることが、時々あります。そのため、積極的に多様性を認めるというよりは、「多様性があるべきだから仕方なく認める(というよりもあえて多様性に目をつぶる)」という社会風潮もあるのかなと。で、あるべきでない社会風潮(たとえばオタクであったりロリコンであったり)には異常に凶暴に攻撃するし、逆にあるべきとされたもの(最近、観光面でも注目を集めている「コスプレ」など)は異常に迎合したり支援したりするのかなと。日本社会がより世界の中で発展していくためには、社会の統一性を乱さないことを主眼にしたごった煮スープ的な多様性の尊重から、たとえ一見、現時点での社会から外れたように見えるものであってもその立場を理解・尊重する真の多様性の尊重に変っていかなくてはならないのではないか。なんだかそんなことも感じました。(2012/10/13)

ゆとり世代がゆとり世代を描くポストポストゼロ年代演劇
(劇団東京ペンギン「阪急VSプレデター」感想)

 いろいろとバタバタで、かなり飛んでしまっている観劇感想。中でも、夏に見てそれなりに印象深く、いろいろと感想をツイッターに書きこんでいるにも関わらず、日記には完全に書き忘れていたのが、この東京ペンギン「阪急VSプレデター」です。
 若干ふざけた劇団名&タイトルなれど内容は至ってまじめで本格的。「ゆとり世代」の閉塞感を、舞台中央にドーンと引かれた「線路」を媒介、真っ正面から突き付けていました。線路の上には、現実感のない、いかにも段ボール箱で作られた阪急電車が、まるで観劇を邪魔するかのように真正面にどーんと吊り下げられています。ただ、この現実感のなさや何となしの嫌な感じや重苦しい感じも、作品のテーマに実にあっていたなと。そして、この邪魔者があるにも関わらず、存分に頑張っていた照明さんがGJでした。
 役者さんでは、やはりヒロイン・宝塚さん役の丸塚香奈さんが視線や動きともにいい感じでした。あわせて、梅田役・米津知実さんが、とてもイヤミで見事な敵役を演じておられました。阪急社員の中での「勝ち組」「負け組」的な色分けも、いかにも「ゆとり世代」らしいなあと感じながら見ておりました。
 この作品、Google翻訳でしか話せないプレデターが出てきたり、列車爆破予告とそれを阻止する過程があったりと、思いだしてみるとかなり波乱万丈なストーリーなのですが、実はそこにはあまり重きを置いていない気も。物語や謎解きではなく、それに絡んだ人が、その人間関係の中で、どう思い、どう考え、どう対処したのかに焦点を当てており、題材は二の次なのです。現実感のない(といっても決して抽象的でもない)舞台美術や、決して技巧的ではない立ち位置・モノ言いなども含め、全く方向性は違うものの笑の内閣やエヴァンゲリオン26話と相通じるものも感じており、そのあたりがポストポストゼロ年代演劇なのかな、とちょっと思ったりもしたのでした。(2012/10/14)

いつまでも、自分は自分の扉を開ける挑戦者。
(県立ピッコロ劇団「扉を開けて、ミスター・グリーン」感想)

 今年のベスト3には間違いなく入るだろうという名作・名演技でした。
 少し前(60年代ぐらい?)のアメリカが舞台。交通事故でとある独居老人を引きそうになったエリート会社員の若者。その代償として彼に命じられたのは、「週に一度、その老人のところに行って世話をすること」。当初は扉も心も閉ざす老人、そして若者。しかし、そのうち「お互いにユダヤ人」であるという共通点がわかり、一気に距離が縮まっていく。そんな中で、若者が「ゲイ」であるという告白が行われ、独居老人も天涯孤独ではなく娘がいることが分かって来て…。ラストシーン、まさに自分自身の「扉を開ける」まで、あっという間の1時間50分でした。
 この作品は、当然アメリカ人の作家の作品。つまり、いわゆる「洋物」です。洋物を日本人がやると、どこか嘘っぽくなったり、違和感を感じることが良くあります。特に今回の作品はユダヤ人やゲイという、日本人には頭では理解できてもなかなか心から理解できない、難しい一種の差別問題がその根底に流れています。食べていいものと行けないものや、肉製品と乳製品を厳密に区別する「コーシャ」などというのも、日本人にはある意味奇妙に見える風習です。しかし、それが決して違和感なく、すんなりと見ている人々に理解させてしまう。役者と演出家、そして技術スタッフの技と思いがそれを可能にしたのではないかと思います。
 差別をする者よりも差別をされる者の方が、実は高い高い壁を作ってしまっており、なかなか扉を開けないということは古今東西を問わず同じことなのかなと。そんな中、なにか人との触れ合いのきっかけの中で、自分の扉を開けるきっかけを見つけ、それに果敢に挑戦していく。それはどんな立場の人でも、どんな年齢でも、遅すぎることはないはず。そんなことの大切さを真正面から取り上げた今回の作品。本当に正統派のお芝居であり、これが尼崎・仙台の2都市で上演されたことにも大きな意味があったような気がするのです。(2012/10/15)

物語の復権、物語の再発見
(ギンギラ太陽's「外食王オムレット」感想)

 わざわざ九州は博多まで行って見てきました。おそらく日本で唯一のかぶりもの劇団・ギンギラ太陽'sの最新作。当然ながら会場の西鉄ホールも初。西鉄福岡駅直結の分かりやすく便利な場所にある劇場でした。
 今回の作品は、「ハムレット」を下敷きに、食中毒を出して営業中止に陥りつつある中洲のオムレツ屋さんを取り巻く九州外食業界が舞台。九州発外食産業の雄・ロイヤル(ロイヤルホストで有名ですね)が対抗馬としていい位置を占めています。「味か利益か、それが問題だ」とか「セントラルキッチンへ行け」とかのセリフに爆笑しつつ、「外食産業の敵はもはやワインコイン・ファストフードでなく、一見かわいげに見えるコンビニのおにぎりである」「ロイヤルホストのランチは1週間の中で材料費がペイするように作られている」とかいろいろとお勉強にもなります。盛り上げ方とかもさすがで、私自身は詳しくは分からない地元ネタも結構面白く、あっという間の観劇でした。開演前には家電業界を取り上げたプレショーや恒例の写真タイムもあって、お客さんも皆さん満足そうでした。
 と、ああ面白かったで終わってしまいがちなんですが、やはり痛烈に感じるのは作者・大塚ムネト氏の「全てのモノには物語が宿る」という一種の信念。それを「かぶりもの」という一見荒唐無稽なものを媒介にして、ストレートに打ち出してきます。思えば、ゼロ年代演劇にせよ、ポストゼロ年代演劇にせよ、「いかに演じるか」「どのように演じるか」については非常に理論的に攻めていったものの、「何を演じるのか」「演劇という媒体が最も効果的に訴えることができるものは何なのか」という点の考察は若干弱い気がします。大塚氏の作品は、九州・福岡という地元に根付いて、徹底的に地元の様々な企業や街並みや出来事の中にある物語を追求し、それを再構成することによって、訴えたい事を明確にしつつ、エンターテイメントとして十分に成立しているという点が、現代演劇界の中でも稀有な才能ではないかと思うのです。表面上でのいかがわしさと、実際に観劇した後に感じる真摯なまでの純粋さ。それこそが「全公演完売」という、最近どんな有名劇団でも滅多におこらない記録に繋がっている気もします。
 「地元にしか分からないネタでお芝居を作っていきます」といいつつも、どこか共通する何かが見つかる大塚ムネト氏とギンギラ太陽's。福岡は美味しいものがたくさんある町なのでグルメ旅行も兼ねつつ、また行ってみてもいいかなと思ったりしています。と同時に、また神戸・大阪への凱旋も大いに期待しているのです。(2012/10/18)

問うこと。問い続けること。
(県立ピッコロ劇団「虎と月」感想)

 高校時代の国語の教科書に必ず出てくる作品「山月記」。あえて漢字の多い難しい書き出しで始まりながら、その内容はかなりセンセーショナルで、多くの人が共感できる作品となっています。「虎と月」はその十年後が舞台。「父は本当に虎になったのか」という疑問を探しに旅に出た「ぼく」の物語。
 舞台は基本的には黒一色。ここに、漢字を多用した持ちパネルが次々と出てきます。元ネタの「山月記」の世界を難しい漢字で表現するというのはなかなか面白いなあと。漢字という表意文字だからこそ活用できる手法であり、逆に鈴木田氏はアメリカで演出方法などを学んできたからこそ、こういう演出をしたのかもしれません。個人的には最初に「門」という構えを使って、それを闇にしたり閑にしたり、あるいは本当に建物の門として使ったりと色々遊んでいるので、それを最後まで貫いてテーマまで繋げてほしかったかなと。「李徴(父)は本当に虎になったのか」との問いが全ての始まりであり、さらにそれを問い続けることがまた「ぼく」の進んでいく道のような気がするので。まあ、原作があるし、作者もいるし、演出歳おでできることに限界があるのも事実ですが。
 14歳「ぼく」役の孫高宏さんには賛否両論かも。今回作り上げた作品の世界観とは若干あっていなかった気もしつつ、とはいえ、違うピッコロ劇団の男性俳優さんが「ぼく」をやってしまうと異常に重くなってしまいかねない気もするので、ベターな選択だったのかもしれません。また、わきを固める役者さんたちにきらりと光るものが多かったのも事実で、保さん、広瀬さん、中川さん、樫村さんなどがなかなかよい演技をされていたように感じました。あとは、音響・照明も、具体的なものが舞台上にほとんどないにもかかわらず、見事に情景を作っていました。
 この作品、中学生にも見せるということで、90分というかなり短い時間で文字通り走り抜けます。それが若干の掘り下げ不足に見えつつも、むしろ若干語り足らないところもまた観客に向かって問いかけている何かになっている気も。「ぼく」に実年齢の近い「山月記」を読んだことがない中学生たちがどんな感想を抱いたのか。そんなこともに興味を引かれる、小粒でもピリリと辛い公演でした。(2012/10/21)

ロボットがある暮らしと人と人々の暮らしと
(青年団「アンドロイド版三人姉妹」感想)

 たまたま東京上京の時にやっていたので見てきました。平田オリザ氏がずっと取り組んでいるロボット演劇の最新作です。実は今年の2月、大阪大学でロボット演劇の公演があり、その日の朝まで観に行く気まんまんだったのですが、午前中にインフルエンザにかかっていることが分かって直前に取りやめたという経緯があります。ということで、一種のリベンジもあり行ってきました。会場は武蔵野市の吉祥寺シアター。とても天井の高い、いろいろと使いやすそうな劇場でした。
 「三人姉妹」ということで当然3人姉妹+気の弱い弟が出てきますが、このうち三女がアンドロイド(ジェミノイド)であるということがちょっと違うわけです(ひとひねりはありますが)。で、登場人物たちはそれを奇妙だと思いながらも受け入れている。執事ロボット(これはいかにもロボットという感じのロボット)とあわせて、描かれている時代の空気感がしっかりと伝わってきました。「労働」はロボットがすることになった時代、それでも人は夢を持ち、悩み、でもそれは現代からみるとどこか外れている。アフタートークで平田氏が「演劇はどういう世界がやってくるのかを想像し、提示することが仕事であって、それをどうするのかは演劇の仕事ではない」と言っていましたが、確かに善悪や優劣では決めにくい社会の何かが提示されていた気がします。
 当然ながら、そんな空気感を作り上げる役者さんたちの力量は感嘆すべきもの。平田氏も「0.2秒ぐらいの単位で間合いを取るので、何百回と稽古を繰り返した」と言っていましたが、確かに気持ち悪いほどにロボット・アンドロイド、そして人物間とのやりとりが自然でした。目を引く演技ではありませんが、役者としての技量の点で、カンパニーとして最も実力があるのは少なくとも私が知る限りではこの青年団ではないかと思うのです。今回は長女の高校教師だった松田弘子さんと、ジェミノイドとあまりにも雰囲気が似ている三女・井上三奈子が特に印象に残りました。
 今回はロボットが演技をするというよりは、普通に生活の中にロボットが組み込まれた時代の人と人々の暮らしを、非常に精密かつ繊細に考察し、それをさらっとしたストーリーと物言いで表現した作品であったと思います。もはや、ロボットが演技をして面白いという時代は、私たちの中でも過ぎてしまったのかもしれません。とはいえ、ロボットという素材を使ってここまでの演劇を作り上げることができるのも平田オリザ氏と青年団だけなわけで、やはり時代の最先端なんだろうなとも感じたのです。(2012/10/27)

キーワードと心でみんな繋がってる6つのストーリー
(ピッコロ演劇学校本科30期生中間発表会「Keyword Stories」感想)

 先週の土曜日に見てきました。今年の本科生は40名近く、座席も超満員。見知った事務所の方からあらかじめ「さじき席に座ってね」と言われていたものの、会場内で今度も見知った事務所の方から「真ん中に1席空いているからあそこ座って」との指定が。結局、中央のいい席でゆっくり見ることができました。まあ、こんな風にいろいろと言われるのも今年が最後かなーとかちょっと思ったり。
 それはさておき、今回は10個のキーワードと5つのセリフを必ず使うことを前提に組み立てられた6つの物語。キーワードは誕生・鎖骨・光・嘘・カーブ・あの人・爪先・黒電話・バナナ、そしてビー玉。セリフは『普通って何?』『みんな繋がってる』『△△次第だよ』『十円玉持ってますか?』。キーワードからどうしてもオカルトチックな作品が増えてしまった気も。そして、後半の「十円玉」で日本という制約が。その制約をどうプラスに転じるのかが台本作者と演出家の腕の見せどころだった気がしました。
 今回も全体的にレベルが高かったので、個別の作品ごとに感想を述べさせていただきます。なお、前年度同様、あくまでも中間発表会ということで、いつもよりは厳しめに書かせていただきました。役者をやったことのない人間の意見ですので間違い・誤解も多々あるかと思いますが、一つの見方としてお許しください。

「月明かりの下の鎖骨」タイトルを見ても分かる通り、非常にまじめにキーワードをたどったという気がします。ある意味真面目すぎて、ゆえに分かりにくい作品になってしまった気も。そしてあまりに頻繁な転換(明転だったのでまだましですが)は初見のお客さんには正直しんどいのでは。良かったのは芝居への期待を否応なしに高めるキャラメルボックス風のオープニングのダンスと、一人ひとりが自分の役割をきっちり理解して動いていたこと。あと、同じように見えて細かく心配りされていた衣裳も好印象でした。
「待合室」死んでから生まれ変わるまでの「待合室」を舞台に繰り広げられる物語。キーワードの使い方は多少強引だったものの、ラストシーンまで一本通った筋があったように感じます。ただ、若干安直な感動物語に走ってしまったきらいも。そして、絶対においしい役であるバクダンを、もっと本来の筋に絡めないと正直もったいない気がします。ササキとマキのラストシーンは多少乗せられた感もあるものの、正直、素敵でした。全体的に個々人の演技力で押し切った感もあります。
「嘘の伝道師」演劇部が舞台なので仕方ないのですが、ストーリーは良くも悪くも高校演劇風でした。むしろ気になったのは、テンションというか、演出が他とはちがう雰囲気。嘘の伝道師・田中優役の役者さんについては(あそこまで遊んだことについて)賛否両論かと思うのですが、むしろ主人公であるひかり役の役者さんの妙に自然な演技に青年団/現代口語演劇風な何かを感じました。演技なのか地なのか分かりませんが…。お話自体は良くあるものの、キーワードの取り入れ方は割と自然だったように思えます。
「ドリーム・ジャーニー」例年なら、最後に持ってきても良いような大作。「10円玉」の使い方も見事。「やさしさに包まれたなら」の使い方も素敵。ただ、作品のテーマが大きすぎ(特にラストの迷走シーンなど。南河内入ってるんかな)、登場人物も多少多すぎて、台本・役者ともに十分こなし切れていない感もありました。とはいえ、この作品を彩るのは個性豊かな役者さんたちで、道化役と歌手志望役の女優さんは忘れようにも忘れられません。他の方々もなかなか個性的で、それをうまく表現していたと思います。多少表現し過ぎ感も。
「ホテルハバナにて」人数が少ない→持ち時間が少ない中で、キーワードもこなしつつ、自分たちのやりたい事をやる。若干苦しさが見え隠れしました。とはいえ、空気感や雰囲気はどこか優しいところがあり、最後まで謎を明言しないものの、「あの時の子どもが今の女将なんだろうな」と思わせて終わるというのはなかなか素敵でした。好き嫌いがあるかもしれませんが、小品としては(キーワードのしんどさは別にしても)なかなか上手く出来ていたように思えます。
「銀河鉄道じゃない夜」以前似たような演劇を見た(その時は高速バスが舞台だったと思うけど)ことを除いては、タイトル、筋書き、人の動かし方とも実に良く出来た作品であったと思います。多くの人が出てきていることにちゃんと意味がある。そして「まいっか宣言」あずみちゃんを彷彿とさせる「若い女」役さんの名演技。ラストシーンをあえて2人でしめるところも素敵でした。ただ、作品自体の力が強過ぎて個々人の演技(に対する集中力)には多少疑問も。次はどの高みを目指すのか、それはみなさん次第です!

 いろいろと書きましたが、今回は全作品とも、台本・役者ともに非常にレベルの高いものであったように思います。毎年毎年レベルアップしているように思えるのは私が年をとったからか、演劇に対する見方が甘くなったからか?それはともあれ、3月の卒業公演が楽しみでもあり、末恐ろしくもある今日のこの頃なのです。(2012/11/2)

愚かな人々と光り輝く灯と
(ピッコロ演劇学校研究科29期生・舞台技術学校21期生中間発表会「喜劇 人間監査」感想)

 土曜日、日曜日と2回にわたって見させていただきました。いずれも満席の入りでした。
 研究科2年目、3年目の方は知っている方もまだまだ多く、その方々が皆さんそれぞれに大変上達されているのがまずは非常に感じました。とりわけ研究科2年目の方々の演技は相当レベルアップしたなと。また、1年目の方もそれぞれ自分の持ち味を生かした演技を精一杯されていたように感じました。個人個人の演技レベルはさすが研究科といったところで、安心して見ることができました。
 一方、あえて厳しいことを書いてしまうと、やはり喜劇は難しいなあと思ったのも事実。とりわけ、多人数での会話シーンがあまりにもそっけなかったり、逆にあまりにも集中し過ぎたりで、全体の中で浮いてしまっているところが結構ありました。2日見た感じでは決してダメなシーンが固定的にあるというのではなく、むしろ集中力にムラがあるのが芝居に出てしまっている気も。ストーリーの盛り上がりで役者も観客も乗っていける悲劇と違って、今回のような人間の諸様相を描き出す喜劇というのは、ちょっとでも気が抜けてしまえば一気に「嘘」になってしまう怖さがあるようです。空気感を壊すことなく、むしろそれを生かしつつ、いかに個性的な自分を表出していくのか。非常に難しいことだとは思いますが、それができれば皆さんの演技が更なる高みを目指していくのかな、そしてそれができるメンバーがそろっているなとも感じました。
 登場する役者が多く、テンポ良いセリフも多いこともあり、音響照明のきっかけとりはかなり大変だったかなと思います。ただ、大きく芝居を妨げるようなミスはなかった気がしますし、音響の盛り上げなどはところどころ「なかなか上手いなぁ」と思ったところもありました。そして、多人数を一度に舞台に上げなければならない(アクティングを広くとらないといけない)という制約のもと、見事に「ろうそく」を表現し、さらには芝居の幅も広げた舞台美術はお見事。私の1年目は平台の二重・パネル・木箱ぐらいでした(これはこれで本科と共通舞台という制約がありました)が、年々進化しているなあと感慨にふけったり。技術学校の方にとっても難しい題材でしたが、十分合格点のオペレーション・作品であったと思います。
 喜劇からうって変わってのラストシーン。舞台中央で照らされる美しい誕生のシーンと、周囲を取り囲む、ある意味愚かな人々。ただ、いずれも持っているのは同じ灯。一見喜劇と思われる人生の中にこも、中にこそ光り輝くものがあり、それが織りなす世界が人間の世界なのである。それに対しては善悪や真偽といった「監査」は全く成り立たない、むしろそれをしようとする人間こそ喜劇である。そんなことを突き付けられた気もします。
 私自身も演劇の手法や技術についてはいろいろと感想を述べましたが、作品が訴えようとしていることや、みなさんが必死になって織りあげた人間喜劇の世界については、掛け値なく存分に楽しませていただきました。3月の卒業公演も楽しみにしています。(2012/11/6)

受け入れて整理をつけてとにかく前に進んで
(遊気舎「続・剥製の猿」感想)

 前篇を見ていなかったので正直普段なら足を運ばないのですが、以前「からッ騒ぎ!」の打ち上げの際に隣の席がたまたま作・演出の久保田さんで(その時はそんなに偉い人だとは知らなかった)いろいろとお話をお聞きしていたので、興味を持って見に行きました。ひさびさの2nd。会場に入るなり目を引いたのが、実に写実的で本格的な舞台装置。下手から上手に向かってゆるやかなスロープになっており、どこかひなびた秋の風情を感じさせる世界が広がっていました。
 前述の通り1作目を見ていないので、なかなか世界観には入り込みにくかったのも事実。なるべく分かりやすいようにか前半は説明調のセリフがいくつかあるのですが、それも逆に耳につきました。ところが、徐々にというか、娘さんが本格的に登場してくるシーンあたりで、急にすっと世界観が飲みこめたんですよね。そこからは一気に引き込まれていくのです。もちろん、出てくる話は月の世界がどうのこうのとか、天狗がどうのこうのとか、前作を見ていない人間にはちんぷんかんぷん。だけど、それを登場人物たちも「ちんぷんかんぷんで非合理な話だ」と思っていて、でも現実にそこに愛する人はいなくなっていて、何らかの形で(葬儀を出すことであったり、いなくなった人と違う人を好きになったりして)受け入れていかざるを得ないという葛藤もある。そして、様々な葛藤を抱えながらも、なお、前に向いて進んでいかなければならない。そのメッセージが、前作を知らないだけに、逆にストレートに伝わってきました。
 そう言えば打ち上げの場で「東日本大震災を知らない人が東日本大震災を描くことについて」話していたのですが、その際に「やはり「震災後」の演劇は何らかの影響は受けざるを得ないだろう」とおっしゃっていたように記憶しています(お酒の席なので多少記憶はあいまいですが)。金環日食の日に月に飛ばされてしまったということは(そこに何らかの意志が絡んでいるのかもしれませんが)、ある意味災害と同じようなものです。災害に合った本人がこれまで抱えていた様々な思いを、残された人はどう捉え、どう整理をつけて、前に進んでいったらいいのか。明確で綺麗な答えではなく、自分自身も悩みながらの、そんなメッセージも感じられた気がします。
 今回は全5作のうちの第2作目。ラストシーンでは(多少蛇足的に)衝撃的な物語も追加されました。一度1作目を見てから3作目、4作目と見ていく方がいいのか、あるいはこのまま突っ走って最後の最後に1作目を見た方がより面白く、深く見ることができるのか。ともあれ次回は来年5月に「新・剥製の猿」ということで、それも楽しみなのです。
 最後に蛇足。「100万回生きたねこ」。これがこの作品のキーワードなのかな(笑)。(2012/11/9)

「、」の先にあるものは
(劇団、本谷有希子「遭難、」感想)

 小劇場関係者としては最も著名人に当たる一人、本谷有希子さんの代表的な作品です。また見て嫌な気分になるんだろうなと思い身構えていきましたが、全く期待を裏切らず、本当に嫌な世界でした。ただ、そこに一種自虐的な爽快感も感じられる。さすがの作品でした。
 高校の職員室が舞台。自分の息子が自殺未遂を起こしたのは「マドンナ先生」と呼ばれる若い女性教師のせいだと責めるモンスターペアレント。そこにいつも洒脱に救いに入る女教師。しかし実はその女教師が自殺未遂していた生徒からの手紙を破り捨てていたことが判明して…という人間ドラマ。どんどん深みにはまっていきます。そして、その実は嫌みでトラウマを抱えた女教師役を男性がやっているのです。これは急なキャスト変更によりこうなってしまったそうですが、全く違和感がありません。むしろ、性というものを越えた人間のいやらしさや本質を鋭くえぐり出すキャスティングになっていたと思います。
 この女教師は「自分が自殺未遂を起こしたということをトラウマに持っている」ということを自身の寄って立つところにしており、それをもとに人を責めたり、自分の行為を正当化したりします。それが崩れされそうになると「私から原因をとらないで」と強烈に主張。自分を含めた観客はその哀れで愚かな姿を笑いつつも、徐々に笑えない何かを感じていくのです。
 「社会の心理学化」というタームをしばしば聞くことがあります。そんな本を読んだこともあった気がします(内容はすっかり忘れたけど)。世の中に心を重視したり、過去の成育歴に気を払ったりする風潮が生まれつつあるということは決して悪いことではありません。ただ、逆に全てを心や自分の成育歴のせいにする人が増えてきているのも事実かと。たとえば、一時「アダルトチルドレン」なる言葉がはやりかけましたが、自分で自分にアダルトチルドレンというレッテルを貼ってもそれ自身には「ああ原因が分かってよかった」という安堵感以外の何の利点もありません。そして、自分がアダルトチルドレンであるということが自分の寄って立つ大切な基盤となって行ってしまう。それは何か間違っているような気がするのです。
 ラストシーン、トラウマを失って嘆く女教師の上から大量の紙吹雪が舞ってきます。それは寄って立つところを失った寂寥感や悲しみなのか、あるいは新たな世界への浄化の象徴なのか。「遭難」の次の「、」の世界を描くのは観客に任されているものの、それがどうしても気になっているのです。(2012/11/10)

20周年記念で人数も設定も主題も大きな作品
(ババロワーズ「妖星アバンチュール」感想)

 (3分の2程度書いたところで全部消えました。なので、だいぶ端折って書きます。)
 リンクスでそのバカバカしくも高質な演技を見てから、一度は本公演を見てみたいと思っていた劇団ババロワーズ。先週の土曜日に実現しました。
 今から1世紀ほどあとの世界(日本?)が舞台。「地球にとある小惑星が向かってきており、このままでは地球にぶつかるということで、皆パニック状態に。ところが、その小惑星はぶつかることなくそのまま軌道を変え、第2の月(セカンドムーン→セム星)となることに。このセム星は大気も綺麗で、人類の生活に適しているどころか、むしろこの星に向かうと病気が治るということで、病人が大挙。ところが、今度は元気になったはずの元病人が突然失踪する自体が何度も発生。調べてみたところ、どうもこの星で瀕死の状態に陥ると、単に病が治るのではなく、過去の思い出や成育歴を一切忘れた不死身の「セム星人」になってしまうことが判明。これはセム星による侵略なのか!これに地球人はどう対抗するのか!そして、引き裂かれた婚約カップルと母子の行方は!!」みたいなお話でした。
 あまりにも荒唐無稽なお話であり、さらに「一種の有機体として描かれるセム星が何を狙っていたのか」が全く分からず(どこかで伏線が張られていた?あるいは何かのパロディ?)、正直、個人的にはしんどいところも多々ありました。2時間越えでしたし。座席のせいか、見えづらいシーンも多かったですし。ただ、「思い出という過去からの軌跡がない人生というのは本当に意味のあるものなのか、そしてそれを決定するのは誰なのか」という真摯な問いは、終末医療や最重度の障害児療育の世界にもどこか通じる問題意識であり、それに対して正解はこっちと明確には打ち出さなかった(母は死に、婚約者は生き残ったという形で)のは、ある意味誠実ではなかったかなとも思いました。
 スタッフワークですが、丸い星を天井から吊り、そのうち一つをミラーボールにしてセム星を象徴した舞台美術はなかなか良かったかなと。舞台上も、ダンスも多いことからアクティングを広くとらざるを得ないという制約の中でうまく処理していました。そして、個人的に気に行ったのがBGMに様々なクラシック(マーラーのアダージェットとか月光とか)が使われていたこと。不思議な世界のなかでのクラッシックは見る側の安心感にもつながった気がします。
 20周年ということで、人数・設定ともに、色んな意味で大作だなあとは感じました。そして、ババロワーズの個人個人の役者さんの良さは十分分かりましたし、作品自体の良さも分からなくもありません。ただ、ファンタジー設定であるにもかかわらず、ちょっと自分のフィーリングとは違うのかなあとも感じたのです。(2012/11/15)

芸と芸能と芸術と
(いいむろなおきマイムカンパニー「【DIVISION POINT】―分岐点―」感想)

 私自身は直接の面識が全くないんですが、ピッコロ演劇学校生に絶大なる人気を誇るいいむろなおき氏。ピッコロ文化セミナーで演技を見たことはあったのですが、一度しっかりと見てみたいと思っていたのが実現しました。場所は旭区の大阪市芸術創造館。ひさしぶりに角屋によってからの観劇となりました。
 DIVISION POINT(分岐点)はDECISION POINT(決断点)であって、それが正しいかどうかに限らず、自らで決定し自分で受け入れていくしかない。そんな主題を全くセリフなしのマイムだけで、ちゃんと観客に訴えていきます。もちろん、真面目なお話だけでなく、コント的な楽しさもある小話も多く、結構笑えたり。蛍光塗料を使った手の演技は以前どこかで見たことがありましたが、それで表題を作るというのはお見事。集団での演技もすばらしく、とりわけいいむろ氏はさすがでしたが、他の出演者の中では特に黒木夏海さんがとってもチャーミングで印象的でした。(ちょっとググってみたところ、こんなパフォーマンスもありました。いい意味で「わざとらしい演技が似合う」女優さんだと思います。)
 こうして楽しませていただいたのですが、見ていてどうしても気になったのは「マイムというのはどうしても技能や技術の方に目を奪われて、主題やストーリーにはなかなか目が行かないのではないか」ということ。もちろん、クラシック音楽にせよ、ストレートプレイにせよ、やはり超絶技巧的なものというのはパフォーミングアーツの醍醐味であって、これがないと実に味気ないものになってしまうのは事実です。ある意味「芸」なり「芸能」なりは必須のものと言えましょう。一方、マイムの場合は逆に「芸」の部分が強調されてしまうため、それで何らかの主題を表現したりストーリーに対して感動させたりというのはなかなか難しいのかなと。今回の公演はそれに果敢にチャレンジしていたような気がしますが、シーンの中ではちょっとそれがしんどいものもあったような気がします。それを一番感じたのは、「言語にならない音声を発しながらのシーン」で、音声を発するのであれば言語になっていた方がより楽しめるし、意味をなしたくないのであればむしろ無言の方が楽しいように感じたのです。やはり人の声というのは非常にインパクトが強い音なので、「ギア」のように決めシーンだけで使うのでなければ、逆にしんどいなあと。「芸・芸能」と「芸術」とのバランスはどのようなパフォーミングアーツにおいても相当に微妙なさじ加減を強いられる問題なのでしょうが、マイムは特に「芸・芸能」の方に強く引き込まれてしまうだけに、よりそんなことを感じました。
 いずれにせよ、マイムが楽しく、また自分が楽しめることは十分に分かりましたので、また別の機会にも見に行きたいなあと思っています。(2012/11/23)

まだまだゴールしちゃだめです
(ステージタイガーLIVE#001「協走組曲」感想)

 1年間にわたりステージタイガーが取り組んできた「協走組曲」プロジェクト。その最後の舞台ということで、(たまたま仕事が空いてしまったのもあって)先週、金曜日に見てきました。
 場所は東梅田のamHALL。ライブハウスのため舞台が高い位置にあり、観客はそれを下から見上げる形になります。また、LIVE版ということでバンド(ALL SWAMPS)がいるため、アクティングエリアも非常に狭く細長くなっています。走り回るステージタイガーのお芝居にとってはかなりのディスアドバンテージです。しかしながら、バンドがあるエリアに椅子を置いて使ったり、斜めの動きを多用したり、細かくデハケをしたりと、見ている人にはあまり気にならないように、相当工夫されていました。テンションを落とさずにこのような場所でもちゃんといつもの芝居を見せる。さすがです。(加えて言うと、照明さんもライブハウスであることを逆手に実にいい明かりを作っていたように感じました。)
 ストーリーは第3章と特に変わりなく、盲目の女性ランナーとその伴走者となった生き別れた父親との物語。ただ、60分という短時間に凝縮されているので、かなり整理されて分かりやすいストーリーになっていたと思います。看板役者の小野愛寿香さんや谷屋俊輔さんが良いのはもちろんのこと、いつもどちらかと言えば気持ち悪い役(ごめんなさい)をしている白井宏幸さんの格好良さもまた見どころでした。
 後半のALL SWANPSのミニライブ(?)では、ステージタイガー団員による小芝居も。ただ、小芝居といえども全く手を抜かないのもさすがステージタイガー。個人的には、南由希恵さんの素敵な乙女な演技を存分に見れたのもうれしかったり。最後は「舞台の虎」とダブルアンコールで会場全体で無事、協走組曲のゴールを迎えました。
 ところで、小野愛寿香さん、明日は大阪マラソンを完走してからインディペンデントの一人芝居フェスに登場されるとか。本当かネタかわかりませんが、いずれにせよ、ステージタイガーにはまだまだゴールがないようです。(2012/11/24)

ちょっとコンマリな気分で。
(最強の一人芝居フェスティバル「INDEPENDENT:12」感想)

 毎年恒例のインディペンデントシアター一人芝居フェスティバル。昨年度はピッコロ関係の友人に誘われての参戦でしたが、今年は自らチケットを購入して芝居な1日を楽しみました。私が座ったのはDブロックの7番。周囲にはマイ座布団を用意している人などもちらほらで、多少常連さん席という感じでした。まあ、12年もやっていればそうなるのでしょう。
 個々の作品の感想は個別に書いて行きますが、概して「混沌とした今の状況を振り返り、それを整理し直して、前を向いて進んでいく」的なお話が多かった気が。これが「人生がときめく片づけの魔法」の近藤麻理恵(コンマリ)っぽいなと思いました。30分の一人芝居のパターンとして適しているのかもしれませんし、時代の流れなのかもしれませんね。

a浅田武雄「悪徳商人レヴォリューション」 典型的時代劇の悪徳商人側に焦点を当てるという着眼点はお見事。「本に書かれている」が「台本に書かれているとおり演じざるを得ない」役者のメタファーなのか、違うのか。確証までは持てませんでしたが。
b板倉チヒロ「世界を終えるための、アイ」 着想が面白いと思ったのですが、元ネタありなんですね。でも、ギターのコード(和音)を使ったのは良かったなと。語っているのが、「男」か「コンピュータ」か分からなくなるところが多少。わざとかもしれませんが。
c伊藤えん魔「伊藤」 相変わらずのインターバル、お楽しみタイムなれど、昨今のいじめ問題にも繋がる題材選び、 面白おかしいシーンでも真面目に演じて強引に世界に持ち込んでしまう力量はさすが
d小野愛寿香「紅 べに」 完全な和物で、遊郭のお話。若干盛りを過ぎた遊女役は、若過ぎる(あるいは幼く見える)女優さんがやってもだめで、申し訳ないけど小野さんは見事でした。マラソンで多少くたびれているのが良かったのかな。これもコンマリ色を感じました(^_^;)
e片山誠子「微笑がえし」昭和テイスト満載の中に、これまでの人生を「微笑かえす」。観客いじりもありながら、最後はキッチリと決めてきました。なんとなくエスパー魔美っぽい容姿&性格&物言いのような気がしたのですが、気のせいでしょうか。
f小林エレキ「駆け込み訴え」 タイトルから時代劇かと思いきや、2千年近く前のお話、イスカリオテのユダのお話でした。キリスト教に馴染みがないとしんどいんじゃないかなあ。題材は題材としても、もう少し離れて描いた方が良かった気も。(太宰治の有名な話だそうです。確かにどこかで見たことのあるような気はしてました。)
g白木原一仁「スマイル」 人生の流れを短時間で演じきる悪くはないストーリーだし、マイムで通した演技力も凄いし、ラストの乾杯も素敵なんですが、どこか観客置いてけぼり感あり。全てマイムでこれだけの主題を演じきるのは、演技巧者でもさすがにしんどい気も。
h丹下真寿美「くまと羊」 とにかく元気な女子!という感じのお芝居でした。正直「コンマリっぽい」と思ってしまったが最後、それ以外の文脈で捉えられなくなってしまったり。ラストのセリフはなかなか良かったです。
i西原希蓉美「わたしの未来」 タイトル、筋書き、演技とも、いい作品だったと思います。が、仕事柄、こういう話はあまり冷静に受け止めにくい部分もありました。ライト&映像は1回だけで十分な気も。全体的にちょっと描き過ぎな感もありました。
j山田美智子「みぞれ」 インディペンデントではかなり異質な作品。男女の間の生々しい感情の動きをかき氷の爽やかさと甘ったるさで描く。夫役はなくてもよかった(その方が怖かった)気も。(ちなみに、後で知ったのですが、この山田美智子さんは22歳とのこと。末恐ろしいです(^_^;))
t1イトウエリ「初恋、奔る」 無邪気に前向きな女の子が、ちょっと後ろを振り返ったときの美しさ。さすが、勝山さん。イトエリさんのちょっともそっとした感じの中学生も素敵。

 いずれにせよ、1人30分×11人ということで上演時間だけでも5時間半の長丁場。なかなか見る方にも体力が要求されますが、それだけの価値は十分にある一人芝居フェス。来年も、発売開始と同時に購入してしまいそうです!(2012/11/27)

蒲団、蒲団、蒲団
(南河内万歳一座「お馬鹿屋敷」感想)

 正直、よく分かりませんでした。特に分からなかったのが、主人公となる男が2人(アイマスクをして寝ようとする男と電車の中で閉じ込められる男)いるところで、もう一方で女の方は明確な位置づけが見え隠れするので、「寝たい男」「寝たくない女」の対比であればまだ分かりやすかったのですが、男2人がそれぞれどんな役割を担っているのか、私には分かりませんでした。客演の人にそれなりに重い役を充てる必要があったためかなと勘繰りたくもなります。そういう意味で、いまいち何を見たらよいのか分からないままに終わってしまいました。
 とはいえ、さすが南河内というか、やはりシーンややりとりだけで思いっきり押してきます。そして何よりも印象的なのは大量の蒲団、蒲団、蒲団。オープニングからエンディングまで、ひたすら蒲団でした。ある意味、蒲団というのは生まれてすぐに包まれて、そこで期待に胸を躍らせたり、楽しい夢や怖い夢を見たり、おねしょしたり、くよくよ泣いたり、思い出し笑いしたり、セックスをしたり、子どもを寝かしつけたり、病で寝込んだり、あるいは死に向かったりとする場。そこはまさに、人生にとっての「入口であり、出口でもある」場。そして、蒲団で寝るということには(たいていの人にとっては)特段の意味も目的もない行為であって、それこそがまさに人生を生きていくことなのかもしれません。
 そして、蒲団というのは極々プライベートなものであるので、普通人目にさらされることはありません。よほど親しい仲でも他人の寝室に入ることはないというのはそのプライベート性によるものでしょう。そんなプライベート性をむき出しにし、現代社会とその中に生きる個人個人を浮き彫りにする…。ストーリーは正直追い切れなかったものの、やはり南河内はある意味すごい団体だなあとも改めて感じたのです。(2012/12/1)

有川浩=折原柊子=前田綾
(演劇集団キャラメルボックス「キャロリング」感想)

 職場から地下鉄2駅の場所にある、最も行きやすい劇場の一つ「新神戸オリエンタル劇場」。ここに毎年必ずやって来てくれるのが演劇集団キャラメルボックス。今年もクリスマスツアーでやって来てくれました。
 今回は超人気ライトノベル作家有川浩さんの書き下ろしということで、多少話の進め方が強引な点は散見されるものの(特に誘拐事件のくだりなど)、一応の流れにはなっていました。舞台美術は多少謎だったものの(壁があんなにどーんとそびえたつ意味が良く分からなかった)、ホワイトボードに「あと○日」とか書いて行くのがいかにもファッション会社らしいなあとか思ったり。オープニングのダンスとか、何か心に大きなものを抱えた男の子が出てきたりとか、ある意味正統派のキャラメルのお芝居でした。
 そして何よりも、今回は「小説家が出演者全員、一人ひとりから話を聞いて本人に当てて作品を仕上げる」というのが最大の特徴。で、ヒロインに選ばれたのが、私が大好きな前田綾さんでした。今回は身長ネタも一切封印しての正統派ヒロイン。個人的にはもうちょっとお姉さん風な前田綾さんの方が好きではあるのですが(エンジェルイヤーストーリーの役が自分の中ではベスト)、でも今回も今回で素敵で実にかわいかったです。
 有川浩さんの作品に出てくる女の子というのはどこか共通するものがあるような気がします。決して世渡り上手ではないけど常に前向きで、自分がこれと決めたことには一直線で、でも男の子との関係は割と紆余曲折で、ちょっと優等生風な自分をアイロニカルに見つめる視点も持っていて、時には落ち込んだりもするけどやはり前向き、みたいな女の子。一番思い浮かぶのは「阪急電車」のごんちゃんなんですが、それはある意味、作者である有川浩さんを反映しているものでもあるのでしょう。そして、そのイメージにキャラメルボックス役者陣の中で一番ぴったりだったのが前田綾さんというのも実によく分かるのです。
 ちなみに、女性の方の年齢を言うのはなんですが、有川浩さんや前田綾さんは実は私とほぼ同世代(全く見えないと思いますが)。そう言う意味で、今の若い女の子たちの感性とは若干違う古風な感じが、今の自分には懐かしく心地よかったし、逆に今の若い人たちには新鮮に感じられるのかもしれません。ということで、今回の作品、自分の中では「前田綾祭り」でした!(2012/12/5)

いくつになっても本当の幸せを求めて
(青年団「銀河鉄道の夜」感想)

 銀河鉄道の夜をフランスで児童劇としてやる。その話はだいぶ前の平田オリザアフタートークで聞いた気がするのですが、それが日本語版になって戻ってきました。場所は青年団の関西ホーム(?)とも言うべき伊丹アイホール。気軽に見に行けるのは大変嬉しいです。見たのが平日夜公演というのもあって、子どももちらほらいたものの、客層の大半は自分よりも年齢が高めの方々。青年団らしいと言えばらしいです。
 話は忠実に「銀河鉄道の夜」です。これを5人の役者さん(全員女優)と映像とで物語っていきます。舞台装置はいわゆる「演劇ボックス」のみ。青年団なのでBGMも効果音も無し(なので、残念ながら新世界交響楽や讃美歌のエピソードはなし)。それでも、役者の演技と雰囲気と、見る人の想像力だけで、町にもなったり鉄道にもなったり宇宙にもなったりするのは、ある意味見ていて斬新であり、まさに「銀河鉄道」の世界のようでした。
 ジョバンニ役の鄭亜美さんは若干癖のある演技ながら、特にラストシーンの長台詞は圧巻ですさまじく引き込まれます。そして、木引優子さんが、様々な感情に揺れるカンパネルラを好演。他の3名の役者さんもさすがの青年団で、安定した演技でした。ラストシーン、「どこが静かな演劇?」というほどの熱の入りようながら、それを自然な感情の発露として表出できるのもまた、一つの芸なのでしょう。セットやストーリーも含め、児童劇だからこそ、青年団/平田オリザの技が光っていた気がします。
 そしてやはり感じたのが、「銀河鉄道の夜」というテキストの凄さ。原作は決して整ってもいなければ、個々のエピソードについては分かりにくいものもあるのですが、その発想や世界観というのは常に日本人と世界の人々を引き付ける何かがあるのでしょう。「本当のしあわせとはなんだろう」、そんな問いかけは小さな子どもにも、昔子どもだった大人にもしっかりと届いたはず。2013年春のロボット版『銀河鉄道の夜』もとても楽しみなのです。(2012/12/8)

日本の“ものがたり”
(「ギア-GEAR- Ver2.0」感想)

 今年4月からロングラン公演を続けるノンバーバルパフォーマンス・ギア。Ver2.0となり、バトントワリングがジャグリングに変更されるなど小さな改変があったということなので、友人にチケットをお願いして、見てきました。相変わらず会場のアートコンプレックス1928の雰囲気は最高です。
 Ver1.0も1回見ただけなのでそれほど違いを感じることはなかったのですが(見た目で違うのはレーザーを使っているところぐらい?)、全体的にテンポが良くなっている印象を受けました。特にパフォーマンスの切り替えがスムーズ。オープニングからしばらくは多少流れに違和感があるものの、むしろそれがないとラストシーンに繋がっていかないということもあって、必要な分かりにくさ・とっかかりにくさなのかなとも思います。
 以前見た時も書いたのですが、この作品は無国籍基調で作られていながら、実に日本的な作品のような気がします。純粋無垢な(白色の)ドールとともに、いろんなパフォーマーの楽しい出し物を見ていく中で少しずつ仲良くなって行き(その色に染まって行き)、だからこそ別れは辛いんだけど、それでもその大切な時間や想いはどこかに残っている(最後の人形にも色が付いている)。それをドールという「モノ」に表現させ、ラストシーンもそうやって終わる。そのあたりの感傷というか感覚は、やはり日本なんだろうなと思うのです。
 あと、ラストになにかモノが残り、最後そこだけに照明があたって消えていくというのも、よくある手法ですが好きだなあと。個人的にはついつい「ナウシカのラストシーンっぽい終わり方」と思ってしまうんですが、ものに何かの想いを乗せるというのもまた日本的なようです。多分、ノンバーバルパフォーマンスが隆盛を見せているお隣の国や、ショービジネスの真っただ中で次々にミュージカルが産まれていく国では、ちょっとこういう感傷はないだろうなと思ってしまいます。(オペラ座の怪人はちょっと違うかなと思ったのですが、あれはウェストエンド(ロンドン)発のようですね。イギリス人にはちょっとあるのかも。)
 今回はマジックのシーンで舞台に上がったり、兵頭祐香さんの素晴らしい演技を堪能できたり、あるいは音響にも注意を払ったりと、2回目でも十二分に楽しめました。ぜひ次は違った方のドールも見てみたいなどと思いつつ、1928ビルを後にしました。(2012/12/9)

行く人、行かせる人、来る人、待ち受ける人
(劇団空晴「これまでの時間は」感想)

 劇団空晴(からっぱれ)第10回目の作品。まさに劇団立ち上げからここまでの歩みを反映したようなタイトル。そして、主題は「誰かがいなくなったとしても、普通に世の中が回っていくこと」について。本当に真正面からの作品でありながら、いつもながらの岡部テイスト(若干南河内風味あり)で、安心して、でもしっかりと楽しめました。
 もちろん素直に見ればいいのですが、やはり個人的には、この劇団の劇団員のお一人が不慮の事故で亡くなった(そして未だに「劇団員」としてクレジットされ続けている&常にご両親からの花が届いている)ことを思い出さずにはいられません。個人的な感想は差し控えますが、その出来事が色んな意味でこの劇団や作品に影響を与えているのかなとも思っています。特に今回の作品は、人を失ったことの重さと軽さ、そして人を送り出すことや何かを捨ててでも前に進んでいくことを、真正面から、決してエンターテイメント性を失うことなく、作品としてちゃんと成立させたうえで描き出す。なかなかの作品であったと思います。
 皆さんそれぞれにいい演技でしたが、新入団の古谷ちささんが、ある意味肩の力の抜けた、空晴らしい好演技でした。ラストシーンでちゃんと時間の経過を表現していたあたり、なかなか技巧派なのかもしれません。そして、ゲストの劇団唐組・稲荷卓央さんが実に怪しくて、いいインパクトでした。ゲストの使い方も岡部さんお上手だなと。そんなことも感じました。
 空晴、基本的には時間も短く、さっぱりと進んでしまうので、若干物足りない感じも受ける印象があります。ただ、その中に潜んでいる想いや主張や、あるいは技巧や技術は相当なものがあります。心がちょっとしんどい時でも決してしんどくなく見れるし、逆に元気な時はそれなりに真剣に見れるし、関西小劇場の中では貴重な存在なのかなとも思ったのです。(2012/12/13)

子ども向けだけど、だからこそ、手を抜かない不条理劇
(ピッコロ劇団「不思議の国のアリスの帽子屋さんのお茶の会」感想)

 ピッコロファミリー劇場と銘打った子ども向けの演劇。8月にピッコロシアター大ホールで公演を行い、その後、県内各地の小学校を旅公演して回り、12月末の芸文センター阪急中ホールで一般募集した子どもたちと一緒に千秋楽を迎える。このパターンすっかり定着しつつあります。で、私の場合、小学校の旅公演は見れないので、見れるとしたらピッコロシアターと芸文センター。ところがこれまで両方を見ることができた作品はなぜかなかったのです。今回は初めて両方を見ることができました。
 それで感じたのが、ステージから伝わる活気の良さ。8月のピッコロシアター公演の時も当然プロとして恥ずかしくない出来栄えなのですが、今回の方がよりパワーアップしています。子どもたちが入ったのも決してレベルダウンではなく、むしろ作品のクオリティを上げる方に寄与しています。なかなか良かったなあと。出演者に子どもが多いということは、友達や兄弟姉妹が見に来ているので当然ながら客席にも子どもが沢山。この子どもたちも最初の「トランプ神経衰弱」ですっかり舞台の虜に。別役作品ということもあって若干不条理なセリフやらやりとりやらもあるのですが、それすらもすっかり楽しんでいるようでした。やはりいい作品を提供すると子どもはちゃんと掴むんだなあと改めて実感しました。
 登場人物はみなそれぞれ勝手で自由でコンプレックスの塊で、でも無邪気で憎めません。そんな人々が振り回されたり振り回したりしているのを笑っているうちに、つい自分自身が滑稽にも見えてきます。で、それでもいいなあと思えてくるし、それを笑い飛ばす強さも産まれてくる。そんな能力は、実は子どものころから知らず知らずのうちに培って行くことが必要なのかなとか、そんなことも考えてしまいました。
 舞台美術、照明、音響ともに高品質なピッコロファミリー劇場。兵庫県が誇る一つの宝として、これからも素晴らしい作品を数多く子どもたちと大人たちのために作って行ってほしいなと願っています。(2012/12/22)

プライドとコンプレックスと共依存と
(からここたち、「久保君をのぞくすべてのすみっこ」感想)

 毎年1回、12月に公演を打っている「からここたち、」。ピッコロの先輩たちがやっている劇団で、そのため音響・照明・美術が自前なのが特徴です。これまでは同期の女性陣だけでやってきたようなのですが、今回は客演(?)も呼んでの作品でした。オリジナルではないのですが、その「女性が抱えているものの大きさ」は、やはり「からここ」テイストでありました。
 売れっ子女性マンガ家のアシスタント部屋が舞台。常に売れなくなる恐怖にさいなまれ、新しい連載を受けようとするマンガ家。マンガ家をしっかりと支えつつも、支えることしかできない自分に悲観してアルコール中毒になったベテランアシスタント。以前ここを飛び出して行ったダメ男とずるずると付き合っている新人アシスタント。その合間でそれぞれに生きている中堅アシスタントやマンガ家の姉や編集者。みなそれぞれに強烈なプライドとコンプレックスとを抱えており、それがまた複雑に絡み合っています。最後、マンガ家は何かに耐えられなくなってしまい家を飛び出します。お互いの共依存の関係に波風が立ち、阿鼻叫喚の場面が繰り広げられます。でも、翌朝にはまた何事もなかったかのように新たな共依存の関係が生まれ、日々が続いて行く。まるでそうやって生きていくしかないかのように。重いしやりきれないのだけれど、でもどこか安心できるような不思議な作品でしたし、これを選んだのもある意味凄いなと思います。
 一番目立たないながらも独特の存在感を発揮していた大場佳奈子役のChomoさんが印象的。また、明堂学役の劔持瑞貴さんは体当たりの演技。黒一点の小井塚香役・本城雪那さんも独特の気持ち悪さがあって役にぴったりでした。他の方もまるで当て書きのように役にあっており、このあたりも演出家の高い作品理解と役者理解が感じられます。華やかながらもつぎはぎ感のある部屋のセットはお見事。照明がいらないところにあたっていたり、音響が多少セリフにかかってうるさい部分があったものの、これは若干、ホール特性もあるのかなと思います。
 何かに頼って生きていくことと、何にも頼らずに生きていくこと。もちろん、完全にどちらか一方ということはまずないのですが、どちらの方向性の方が実は正しいのかなとか、改めて考える機会を与えてくれた今回の演劇。人生の終わりの始まりを向かえた40歳の私にも何か感じるものがあったのです。(2012/12/23)

流れるもの、流されるもの
(やなぎみわ「パノラマ〜鉄道編〜」感想)

 京阪電鉄なにわ橋駅の空きスペースを利用してできた「駅の劇場」。2012年プロジェクトの締めくくりとなるのが、この「パノラマ〜鉄道編〜」でした。劇場自体が駅のプラットフォーム風になっており、それを生かした作品となっています。
 話の筋・主題としては、萩原朔太郎の『日清戦争異聞(原田重吉の夢)』が全てであり、いい意味でこれ以上でも以下でもなかった気がします。漢文調も含めてこの世界観と感慨と情緒とをいかに現代日本によみがえらせるのかという、一つの演劇的な実験でもあったとも言えましょう。
 原田重吉も、萩原朔太郎も、現代からみれば時代に流された人です。しかし、現代の私たちもまた何かに流されている。それは、どこまで行っても同じ光景が繰り返される鉄道パノラマと同じなのかもしれません。時代や世間というものは、案内嬢やらチャンチャン坊主やらのように明確に何かに表象されて出てくるものではなく、でも明らかにどこかに向かって動いている。現代日本には、日清戦争や日露戦争、太平洋戦争といった時代の流れを区切る明確な出来事がないだけに、よりそれが見えにくくなっているのかもしれません。
 最後、多くの人が太平洋戦争の空襲に巻き込まれるように、時代というのは容赦なく人々の上に降り注いできます。それに抗うのも生き方なら、流れるのも生き方。でも、流れされようとしていたり流れていたりという状態に対する認識は常に必要なのではないか。劇場内に時折聞こえてくる「ピンポーン」という階段の場所を示すチャイムの音が、約100年前と現代とをしっかりと結んでいたのです。(2012/12/24)

ハートウォーミングな、とにかくハートウォーミングな、クリスマスのお話
(劇団SE・TSU・NA「SANTA×CROSS 2012」感想)

 まだ1年は終わっていませんが、おそらくこの作品が今年最後の作品、63本目になります。劇団SE・TSU・NAです。実は以前、いるかhotelの「からッ騒ぎ!」をお手伝いしていた際にこの劇団の坂口ゆいさんが出演されており、そのあまりのお姫様ぶりに「この人はお姫様以外だったらどんな芝居をするんだろう」と興味を持ったのがきっかけです。あとは、彗星マジックの木下朋子さんが出演することから「これはハートウォーミングなお話なんだろうな」という一種の保障になったというところもあります。やはり最後は明るく締めたいですものね。
 ちなみに、このサンタクロースが一杯出てきて鉢合うというお話は劇団SE・TSU・NAの恒例のようです。ですが、毎回お話は違うようで、今回は「一人見捨てられて死にかけた赤ちゃんを救うことができないサンタ見習いたちのお話」でした。結局はハートウォーミングに終わり、それはそれで想像どおり温かい気分にはなれたのですが、「両親が交通事故にあって意識不明で赤ちゃんだけが家に取り残された状態」というのもあまり現実感がない上に、今後も良くなりそうにない気がするし、「サンタ見習いの試験」という話はどこかに飛んでしまっているし、「なぜ3人がここでかちあったのか」も謎だし、「手を出すか出さないかの葛藤(もちろん出さないということにもちゃんと理由があるわけで)」もきちんと描かれているとは言えないし、若干おしい感じのするストーリーでした。ただ、この作品の魅力は多彩な役者さんたち。とくにサンタ見習いの3人(坂口ゆいさん、山本禎顕さん、ひおき彩乃さん)はそれぞれに性格付けもしっかりしている上に、おそらく地の持っているものとも相まって、実に楽しくなります。その見習いサンタ3人を支えるトナカイチームと、さらにそれを崩すエリート(落ちこぼれ?)トナカイの木下さんというのも、非常に良い取り合わせでした。決して難しくなくひねってもいないストーリーに、見ているだけで楽しくなるような役者さんが生き生きと動き回る舞台、これもまた一つの演劇のあり方であり、クリスマスにふさわしい演劇なのかもしれません。
 ちなみにこの劇団、視覚障害者向けに無料の音声解説を行い、ちゃんとガイドヘルパーは1名無料とされています。実際に当日、視覚に障害をお持ちの方が見に来られていた様子でした。もしかしたら関係者の中にそういう方面の方がおられるのかもしれませんが、演劇のすそ野を広げるとともに、誰でも楽しめる演劇を作り出すということは、本当に必要で大切なこと。そんなことも含めて、何重にもハートウォーミングなお芝居。最後を締めくくるにはふさわしい作品だったのです。(2012/12/25)

2012年の舞台Best3

 今年もまたこんな季節になりましたね。今年見た63作品の中から選びました。今回は特に順位は付けていません。
 どちらかというと出来事(イベント)重視の選択になってしまったきらいもありますが、もちろんどの作品も内容自体も素晴らしいものばかりです。来年もまた素晴らしい作品に巡り合えることを期待しつつ。

ピッコロ劇団「扉を開けて、ミスター・グリーン」
 県立劇団が仙台の劇団と組んでしっかりと取り組んだ洋物。決して派手さはないけれど、極限までにそぎ落とした演技と脚本と舞台、そして技術を駆使しながらそうは見せなかった照明。高品質な舞台でした。

南河内万歳一座「夕陽ヶ丘まぼろし営業所」
 1年間の休団期間の全てを凝縮した作品。3.11後の世界をかなり丁寧に描きつつ、それでも「夏は楽しみ」と言い切る気概。40周年に向け小劇場界を引っ張っていく南河内の決意と覚悟が垣間見えました。

NPO法人ライブエンターテイメント推進協議会「ギア-GEAR-」
 誰もが続かないと思った小劇場規模でのロングランを、様々な困難を乗り越えつつ実現。動員数1万人越えは作品の良さの証明。やはり今年の関西小劇場界最大の作品であり、出来事でした。

 今年は個人的にはいろんな意味で「終わりの始まり」的な1年だったんですが、演劇についてもそうかなと。今年は職場が変わったこともあって、お手伝いは何回かありましたが、主体的・積極的にメインスタッフとしてお芝居に参加することができなかったのです。で、お手伝いの際も正直、感覚が鈍っており、あまり役に立たなかったり。その繰り返しで正直やるのが怖くなってしまったり。おそらく「演劇は見るのが専門」のスタートの1年になってしまったのかなと。
 まあ、それも一つの演劇活動ではあるのですけどね。色んな芸術に触れることがいつか何かの役に立つかもしれないし、役に立たなくても楽しい人生を送る上での糧になると信じて、しばらくは観客として演劇に触れていきたいなと考えています。。

 2012年に見た全63作品のキャスト・スタッフの皆さん、お疲れさまでした。そして、ありがとうございました。2013年も皆さんが作り出す素敵な作品たちと出会えることを期待しています。(2012/12/28)



2012年、今年もありがとうございました

どうぞ、よいお年をお迎えください。

2012.12 いそべさとし




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