いそべさとしのホームページ

過去の2日に1回日記(旧・お知らせ)保管庫(2011年4月〜6月)


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 過度の自粛は、飲食業界やエンターテイメント業界に従事する人々の仕事を奪い、経済復興の妨げとなるばかりでなく、「心の復興」を遅らせる原因にもなります。
 周波数の違いのため、西日本から東日本には電力を直接供給はできません。西日本での過度の自粛は、百害あって一利なし。関東・東北に様々な制約がある今こそ、西日本・関西の明るさで、この日本を元気にして行きましょう!

※「ささえよう日本 関西からできること」の趣旨に賛同します。(4/5追記)

2011.4.1 いそべさとし
2011年4月1日〜4月16日まで、ホームページトップに掲示していました。




日本は民間力の国
 東日本大震災の被災地に対する救援物資の輸送、ようやく一定の体制が整いつつあるようです。
 範囲が限定され、また既存の輸送ルートも(被害を受けていたとはいえ)豊富にあった阪神・淡路大震災の被災地とは異なり、今回の被災地は広範囲かつもともと交通手段が限定された地域で、頼みの綱の港湾も津波により破損というよりは消滅したという、物流にとっては非常に厳しい状況でした。救援物資輸送体制の立ち上がりの早さや集まった物資の量と質などは阪神・淡路大震災の時とは比べ物にならないほど高かったと思うのですが、それを避難所まで確実に運ぶことのできる物流が壊滅状態であったことが、救援物資が円滑に被災者へ届かなかった最大の原因であったように思えます。
 一時期、自衛隊が各駐屯地から被災地へ運び、それをさらに各避難所へ運ぶというスキームが官房長官から発表されたことがありました。今も自衛隊のホームページにはそのスキーム図が載っています。ところが、実際にはこれがなかなか機能していません。というのも、自衛隊の主力部隊は被災地に派遣されており、そのために必要な車両等も全て被災地に行ってしまっています。そして自衛隊は、もともと物資の輸送を主たる任務としている組織ではありません。自己完結型の兵站としての高い能力はあるのですが、同一物資の大量輸送などにはそもそも適していないのです。結局、民間のトラックを使った輸送が被災地に対する一番の物流となっています。緊急時の一番最初の救援には自衛隊や消防など官の力が必要かもしれない。ただ、それが物量を伴ったものになると官で担うことは不可能で、民間の力に頼らざるを得ないし、頼るべきだ。今回の震災で改めてそれを感じました。
 救援物資の配送ルートはようやく整備されつつあるのですが、そろそろ救援物資から日常の物流への切り替えも見越していかなければなりません。過度な救援物資の供給体制は、地元のスーパーや商店街などの流通業や飲食業へ、じわじわと目に見えない打撃を与え続けます。そして、官ベースでの救援物資の配布は、官にはPOSシステムもSCM(サプライチェーンマネージメント)の知識も設備もないので、どうがんばっても被災者からは不満が出るものになってしまうのです。ものを直接給付する支援から、義援金などを活用し、必要なものを地元で購入することにより、地元経済の立て直しにもつながる支援へ。日本が誇る高い高い民間力を信じつつ、切り替えを考えていかなければならないのかなと感じている、今日この頃です。(2011/4/1)

休符の緊張感と弱起の力強さと
(藤川央子さん「桜便りライブ」感想)

 昨日、ピッコロ舞台技術学校でお世話になった藤川央子さんのライブに行ってきました。場所は大阪日本橋のCAFE&BAR「太陽と月」。実はこういう場所で音楽を聞くのは、生まれて38年目にしてたぶん初めて。ライブハウス自体も、ニューヨークで同宿になった子と一緒に行ったぐらいでほとんど初めて。音楽というよりは環境の方に多少違和感と戸惑いを感じながらの鑑賞となりました。
 南河内万歳一座の女優さんでもある央子さんが音楽のライブ活動をしているというのはネット上での知識としては知っており、いくつかYoutubeにも上がっているので大体の雰囲気も分かっていたのですが、やっぱりライブというのは緊張感が違います。特に感じたのが、無音になった時の休符が持つ緊張感と存在感。むしろ、音が鳴っているよりもずっと雄弁に何かを語りかけてくるのです。そして、感情に合わせて少しずつ、時には激しく移りゆくテンポもまさにライブならではでした。どの曲も全力投球、演劇だとラストシーンに流れるような曲ばかりなので、聞く方もどんどんとテンションが上がってきます。
 個人的には弱起(アウフタクト)を多用した曲も大好き。中学・高校時代に音楽の授業で作曲の課題があったのですが、その時に弱起の曲ばかり作っていたのを思い出します。「弱起」という言葉に騙されますが、実は弱起の曲の方が力強さと感情を込めやすい、調性の変化が印象的になりやすいと、昔から思っていました。更に嬉しかったのが、曲の最後の終わり方が一曲一曲とっても考えられていて綺麗なこと。どんな素晴らしいメロディや展開でも、最後の最後で終わり方がいまいちだと「あーあ」と思ってしまうことが良くあるのです。ところが彼女の曲はすべて終わり方がしっかりと考えられており、曲の向こう側にある何かへの想像力をかき立ててくれます。
 今回は初めてということで誰も誘わずに行ったのですが(現地でピッコロの同級生と会いましたが)、次回以降はぜひ皆さんにもお声掛けをしたいなあと思えるライブでした。ついつい彼女のほんわかとしたMCの魅力に捕われてしまいそうですが、むしろ音楽の素晴らしさを味わってほしいなあと思います。6月の「ボラ☆ボラ 梅雨明け公演」には、音楽(ピアノライブ演奏)で参加されるとのこと。ドタバタ即興劇としても有名な「青木さん家の奥さん」を、全力投球系の彼女の音楽がどう調理するのか。本当に楽しみにしています。(2011/4/3)

不安定で不安心で不安全なお仕事
 先日、衝撃的なブログの記事を発見しました。「なぜ10年前の35歳より年収が200万円も低いのか−"35歳"を救え」です。同名のテレビ特集およびそれをもとにした書籍が話題となっているそうですが、寡聞にして知りませんでした。とはいえ、この記事だけでも十分にインパクトがあり、特に印象的なのが年収のピークが200万円以上減少しているというグラフ。私もなんとなく実感していたのですが、こうやって突きつけられると改めてやるせなさと無力感を感じます。
 私が県庁に入った十数年前はまだまだ毎年ベースアップがあり、その調整が12月に行われていました。本庁の課長・副課長などは4ケタ万円の年収があるなどとも言われていました。ただ、最近は12月に減額調整をされ、もはや課内で4ケタの年収をもらっている人はまずいません。というよりも、この十年ほど残業除きで自分の給料はほとんど増えておらず、むしろ社会保障費の増加分だけ手取りベースでは減額になっているはずです。まあ、社会保険庁に入庁した職員のようにやめさせられないだけましといえばましなのかもしれませんが…。世の中でもっとも安定した職業と思われている公務員であっても、順調に給料が増えていくという安定や終身雇用の安心は完全になくなりました。
 そして、今日、びっくりしたのが私の住む神戸市内の某区役所で、生活保護担当の職員が被保護者からナイフで刺され重傷を負ったとのこと。犯人は「保護費をなくしたので再交付しろ」と言っていたそうで、まともな大人が言うこととは思えません。多少、精神的な問題も疑われるようではありますが、いずれにせよ、公の権威や強制力が減少し、「切れる」住民や「モンスター」住民も跋扈している今日この頃、公務員はもはや住民を素直に信じてはいけない状況になりつつある気も致します。そのうち、お金を扱う部署は透明のパネルの向こう側で、小さな窓口だけを介して、住民と接することになりそうです。安心も安全もなくなりました。
 不安定で不安心で不安全なお仕事。公務員のみならず、社会全体で、私たち団塊ジュニア世代が専ら担わされている気もしてならないのです。(2011/4/5)

本気でない18年間などないから
(sputnik.「ハウ・ダズ・イット・フィール」感想)

 ピッコロの知り合いが出ている&ちょっと演劇が見たい気分だったので、大阪はインディペンデントシアターファーストの「火曜日の劇場」へ。現在は30分モノ2本立てという企画。それぞれ違う劇団さんが一つのテーマ(今回は「コンプレックス」)で舞台を作り上げており、その競演(?)も見もの。なかなか面白い企画です。まずは、sputnik.の「ハウ・ダズ・イット・フィール」。
 18年ぶりの小学校の同窓会。ところが、集まったのは男女二人きり。仕方なく、一人暮らしの同級生のマンションへ転がりこむ。昔はジャイ子と呼ばれていたノリコもすっかり美人に。「18年は女を変えるには十分な時間よ」とか言いながら、ビールを飲みつつ昔話に花が咲く。ところが、教室で飼われていた「ぴょんた」の話から、3人の関係は違った方向へ…そして、その場にはいない、仲良し3人組の一人トモキが絡んできて…。若干サスペンス風味もちりばめながら、緊張感のある独特な世界が繰り広げられました。
 とにかく役者さんが素敵。かなり知的な会話劇なのですが、それを決してそう感じさせない空気感があるのです。特に、警察官(らしくはないのですが)役の鈴木経一朗さんの、最初から最後まで失わない、ピンと張りつめた緊張感が、ともすれば会話とシチュエーションに流れかねないこのお芝居を一本筋の通ったものにしていた気がします。「コンプレックス」というテーマ設定からすれば彼が主役なのでしょう。そして、仲良し3人組の関係への“侵入者”であるノリコを演じた巽由美子さん。「綺麗になったって言わせてやる」とか、ああいうセリフと仕草が何とも似合います!彼女は回想シーンでトモキ役もやるのですが、それもある意味、伏線というか、今の彼女とトモキとの関係を垣間見せているのかなと思ってしまいました。ペット店の雇われ店長役の川上立さんは演出を兼ねているということもあって、決して前には出てこないものの、しっかりとその場を作っていたように思えます。やはり、ああいう会話劇は役者さんの力によって良い悪いがはっきりするんだろうなあと。照明さん・音響さんも、若干抑え気味。とはいえ、ノリコの素性がばれるシーンの照明など正直しびれる部分もあって、とにかく30分間にびっしりと詰め込んで走り切った、役者・脚本・スタッフワークともに高品質なお芝居。いいものを見せていただいたなあという感じでした。
 劇中、「3人のうちで誰が一番つまらない大人になったのか。」という投げかけが、時代の寵児として太く短く生きたトモキからなされます。確かに12歳の頃の純粋な気持ちのままに、純粋に世界を変えようと生きていくことは、正直難しいかもしれません。でも、12歳から30歳までの18年間、本気を出さずに生きられるほど、この世の中って楽ではないし、つまらなくもない。心のどこかにあと一発の銃弾を隠し持ちながらも、でも目の前の日々を着実に生きていくことが、自分らしく生きていくことであり、「コンプレックス」を解消していく方法なのかもしれない。トモキからの最後の手紙、2枚あったのですが、もう1枚の内容は語られません。ノリコが「私への指示よ」といったそこに本当は何が書いてあったのか、どこか心地よい心残りが、終演後の舞台にありました。(2011/4/7)

それでも前を向いて走っていくしかないから
(プロジェクト俺の穴「コンプレックス×コンプレックス」感想)

 30×30のもう1作品が、プロジェクト俺の穴の「コンプレックス×コンプレックス」。前作があまりにも高レベルな作品だったため、どうかなあと思いながらちょっと厳しめに見初めてしまいました。
 男に捨てられた女の子と、持ち主から捨てられた旧式アンドロイドとの心の交流のお話。どちらも捨てられたということが理解できず、でもお互いに語り合ううちにそれを理解して、それでも前に向いて走っていくしかないと決意する。ある意味、とても単純なお話ではありました。タイトルも正直、全くひねってはいません。ただ、そのまっすぐさが、逆に実に気持ち良い疾走感と劇後感を与えてくれるんですよね。高校演劇では決してないけれど、やはり一種の若さなのかなあと。これがsputnik.のようなどんでん返しが何度も続くようなお話であれば観客は付いていきにくいし、逆にsputnik.がこの話をそのままやっても全然面白くないだろうし。そういう意味では2劇団を続けてみるというのは、いろいろと勉強にもなります。
 個別の役者さんの良さもあるのですが、こちらはむしろ2人で作り上げる空気感。2人の間に生まれてくる友情が、舞台と客席とが近いこともあってじかに伝わってきます。そして、簡単ながらも具体的なゴミ捨て場の小道具たち。特に原色系のビールケースが、ともすれば単調に流れやすい舞台に良いアクセントを与えていました。ラストシーンでこれらのごみが全て片付けられてしまうのも、また象徴的です。舞台美術は量や手のかかりようではないということを改めて認識した気がします。
 コンプレックスをテーマにした2作品。どちらも前向きな解決策を示してくれました。「そんなにうまくいかないよ」とは思いつつも、でもそう信じたい、そう信じて走っていくしかないことも分かっているわけで、平日の夜、少しだけ前向きな気分を抱えつつ、家路についたのでした。(2011/4/9)

大切なことはみんな魚屋で学んだ
 私の人生の中で大切な出来事というのはいくつかあるのですが、そのうちの一つが大学・大学院時代に5年間、魚屋でアルバイトをしたこと。何と言ってもあまった魚が手に入るというのが最大の利点で、大学生とは思えないほど恵まれた食生活を営むことができたのはひとえに魚屋さんのおかげでありました。
 十数年前はまだまだのんびりとした時代で、仕事終わりに余った刺身をつまみつつビールを1本、なんてこともよくやっていたのです。バックヤードで、社員さん1人とアルバイトが1〜2人。短い時間ではあったのですが、いろいろと語り、いろいろと教えてもらいました。そこで感じたのは、社会人というのはなかなか大変だし、意外とみんなまじめに仕事に取り組んでいるんだなあということ。魚屋という商売の特性もあって豪快な人が多いのですが、それでも日々刻々と変わる相場をにらみながら、利益率やロス率を考えながら仕入数量と価格を決め、目標とする売り上げや利益に近付けていく。私が勤めていた頃は「価格破壊」という言葉が流行語になったほどで、傍目にも並大抵の作業ではありませんでした。そして、シフト制や休憩などはあってもなかなかその通りにいかないのも社会人。若い社員さんなどは下積みの苦労もされていました。ほんの少しだけど、社会人、そして民間の厳しさを垣間見ることができたのです。
 同時に思ったのが、アルバイトといえども本気でないと勤まらないし、面白くないのだなということ。デパート内の魚屋のため対面販売もあったのですが、当然お客さんは調理法や特色などいろんな事を聞いてきます。どうしようもなければ社員さんを呼びますが、ある程度は自分でも知らないと全く話になりません。料理のプロである家庭の主婦などのお客さんに何を教えたらいいのか。図書館で料理の本を借りたり、旬の魚が載った図鑑を買ったり、時には持って帰って自分でいろんな料理にして確かめてみたりと、我ながら結構勉強した気がします。そうしていると、いろんなことが分かってきて、働いていてもどんどん面白くなってくる。最後には、まるで趣味のように魚屋バイトを楽しんでいました。自分にそういう仕事特性があるということが分かったのも、大きな大きな収穫であったと思います。
 ある社員さんから言われたことがあります。「君たちは魚屋になる人間ではない、もっと大きな立場で世の中を動かしていってほしい。でも、こういう人たちがいることも忘れないでほしい」と。普段は温厚なおじさんだったのですが、意外なほど真剣な表情でした。今、私は、大きな立場ではないけれど、経済を動かし社会を動かしている民間企業の方々のお手伝いができる立場にいます。自信を失って社会が萎んでしまいかねない今日、あの魚屋で学んだことを大切にしながら、日々の仕事を頑張っていきたいなと思っているのです。(2011/4/11)

春風邪は突然に
 突然、風邪をひいてしまいました。
 突然という言い方は変かもしれませんが、今日の午前中「なんだか寒気がするなあ」と気づいたが最後、急に鼻水が止まらなくなり、職場に保存してあったプレコール持続性カプセルを飲んだものの全く効かず。昼食は「風邪に打ち勝たないと」と思い、カプサイシン効果を期待してズンドウフチゲ@すーぷ房を食べたものの、状況に変化なし。3時ごろ、これも保管してあったカコナールを飲んだものの、全然ダメ。夕方から友人の劇団の見学に行く予定だったのですがさすがにキャンセルさせてもらって家に帰宅し、ちょっとひと眠りして起きたところです。多少はましになった感もありますが、今度は身体の節々だの首だのが多少痛むので、やはり風邪のような気がします。今回は風邪を引くにあたり思い当たる節(?)が全くないし、当日朝までは元気溌剌だったので、なんとなく嫌な感じです。
 今日は昨日見てきたお芝居(とってもよかったのです)の感想を書く予定でしたが、今書いてもなんとなく後ろ向きになってしまいそうなので、後日へ。たかが風邪でも、本人にとってはされど風邪。セカイ系ではないけれど、やっぱり世の中というのは自分のフィルターを通してしか見れないんだなあとかちょっと感じる、病気の夜でありました。(2011/4/13)

さあ、バトンを拾って走りだそう(ステージタイガー「灼熱二声」感想)
 前の週が非常に良かったので、今週も火曜日の劇場@インディペンデントシアター1stへ。今回は、1年間毎年やってきた劇団「彗星マジック」の最終回ということもあってか、非常にたくさんのお客さん。補助席も出し、立ち見まで場所を決めての観劇となりました。なんとなく昔の小劇場の熱気を思い出したりもしつつ、オーバーアクションの前説も楽しみつつ、舞台が始まりました。まずはステージタイガーさん。
 戦時中の、厳しくも明るい応援団のお話。「応援するものは応援されるものよりも強くなければならない」ということで、暑さにも耐え、日々練習を続けています。しかし、戦局は一層悪化し、応援すべき運動部員も対抗試合も徐々に減り、応援団の存在意義すら危ぶまれる状況になっていくのです。ある日、もともと主要メンバーだったナリタが切り崩しにあいます。軍人の家に生まれながらもぜんそく持ちのために軍人に慣れなかった彼。彼を引きとめる中で、自分がバトンを落としたせいで大学が負けてしまったという新人君の過去が明らかになります。そして、団長がそれを知りながら彼の入団を認めたということも。一人ひとりが弱い部分やつらい過去や現在進行形の悩みを抱えながらも、懸命に生きているし、そうやって生きていくしかない。そんな人々を、ささやかでも応援し続けたい。表面上はパワーで押し切っているように見せながらも、そんな純粋な思いがしっかりと伝わってくる舞台でした。
 芝居後にちょっとしたアフタートークがあったのですが、そこで作者の虎本氏が語っていた言葉が印象的でした。「この話を見て、震災を意識したのですかと聞かれるけど、実は震災以前に書き終えられた台本。何でも震災に関係づけるのは、そろそろやめましょうよ」と。確かに、それぞれにいろんなものを抱えながら生きていかなければならないのは、戦時中という過去も、今の関西も、今の関東・東北の被災地も、未来に生きるであろう人々も、全く同じ。辛い思いも思い出も夢も希望も全部抱えて、こぼれても拾い直して、人は最後まで走り続けないといけないというのが、この舞台の主題。だからこそ、若干ぶっきらぼうだけど、終演後にああいう発言が出た、出せたのかなとも思ったのです。(2011/4/15)

さあ、絵を描こう
(彗星マジック「定点風景第11夜「定点風景」」感想)

 毎月1回、計11回にわたって演じられてきた「定点風景」の最終回。前説では「初めての人も楽しめますよ」とのことでしたが、確かに初めてでも楽しめました。というよりも、お話を知らないからこそ、逆に純粋に訴えたいものが伝わってきた気もします。
 1体のロボットの女の子と、丘の風景との対話。そのロボットは、特殊な鉱石をエネルギー源としているが、その鉱石は枯渇し、あとはもう倒れるのを待つしかない。モノトーンの世界での仕事を終え、自由な立場となり、丘の上から見た美しい風景を描いたり、子どもたちに絵を教えたりする日々。そして、エネルギー源が切れる間近に、再度ここを訪れ、風景たちと、自然と同化していく…。一見、ファンタジーチックなお話ではあります。ただ、ファンタジー、嘘の世界のお話なんだけど、心にしみてくる、真実がそこで演じられているんだろうなあと想わせる何かがある。こういうタイプのお芝居は久しぶりでした。世界観に嘘がないのです。
 もちろん、それを支える役者さんやスタッフワークのレベルの高さも特筆すべきものがありました。特に素晴らしかったのがロボットの女の子役の西出奈々さんの演技と、舞台の世界観をしっかりと支えていた音楽・音響。西出さんはロボットでありながらも、逆にロボットであるからこそ、伝わってくる、伝えたい感情というのを、しぐさやセリフで存分に表現していました。私は2列目で見ていたのですが、観客の引き込み方が圧倒的でした。そして、ファンタジックでありながらも優しさも伝わってくるテーマ曲、更にシーンと同期して変化していく音楽、後方からだけ出された鳥のさえずりや人々の雑踏のような効果音。もちろん、(多少ロスコ使い過ぎな気はしたものの)シーンシーンで効果的に使われる照明や、自然を取り込んだ民族風の衣裳やヘアメイクというのも実に素敵でした。これらが一体となって「定点風景」という世界を作り上げていたのです。
 前述のとおり、これまでの10回、何を演じ、何が語られてきたのか、私は全く知りません。でも、この世の中のどこにも形のなかった「定点風景」の世界が舞台上にきっちりと描かれ、その中で人々や自然が、悩み苦しみ楽しみながら生きていたのだろうなということは、この最終回を見ただけで十分に確信。思えば、演劇というのは、作者・演出・役者・スタッフ・観客が一体となって、どこにもなかった世界を、風景を、一つ一つ生み出していく営為に違いないのかもしれません。ピッコロ舞台技術学校での2年間は終わったけれど、これからも何らかの形でそういう風景に関わっていきたいなと、改めて決意したのです。(2011/4/17)

朝の光、植物の緑
(ピッコロ劇団オフシアター「法王庁の避妊法」感想)

 「ものすごくぜいたくなお芝居だった」。この作品を見た後、隣の席に来た技術学校同窓生との第一声がそれでした。中ホールとは思えないほど作り込みつつも過不足ない舞台美術、細かく移りゆく季節を表現した音響・照明、個性的でそれぞれの性格がダイレクトに伝わってくる役者、温かくも真剣な問いを突き付ける台本、すべてが高いレベルで格調高く、正直、オフシアターと名乗るにはもったいないほど。ピッコロ劇団というプロフェッショナル集団の実力を存分に感じさせてくれる作品だったのです。
 「法王庁の避妊法」。この一度聴いたら忘れられないタイトルのお芝居が非常に有名であるということは以前からどこかでは知っていたのですが、具体的な話の内容は知らず、見たこともありませんでした。いわゆる「オギノ式避妊法」の発見者でも有名な荻野博士の物語。産婦人科病院で繰り広げられるさまざまな人間模様が、楽しく、そして温かく描かれています。ただ、そこで突きつけられるのは「人間は、出生という生命の出発点を、自らの手で選択して決めてしまってよいのだろうか」という、非常に哲学的な命題。荻野博士の妻のトメさんは、結局、「自分は子どもがほしい」ということでそれを乗り越えて、一見めでたしめでたしのハッピーエンドとなるわけですが、産婦人科という人の誕生と死に向き合っている場所ならではの、かなり深いお話でした。
 いわゆる「オギノ式」の発見から約80年。医学はますます進歩し、女性の地位は全く変わってきました。もはや結婚しないことも、結婚しても子どもを持たないことも、子どもができない場合に不妊治療を受けるかどうかも、特段、周囲から咎められたり強制させられたりすることなく、自分の意思で選択できるようになってきました。それは確かに、「婦人の自己決定」という観点からも、喜ばしいことではあります。ただ、逆に「選択」しなくてはいけないというのは、様々な情報や考え方を自分で集め整理して、自分の責任のもとに何らかの結論を出さざるを得ないということであり、本当にしんどいこと。そして、現実的に、その選択を迫られているのは大抵の場合女性であるということに、生物学的な問題もあり仕方ないとはいえ、若干のやるせなさや無力感を感じざるを得ないこともままあります。せめて、その選択を安らかにさせてあげたい、そしてその選択を後悔しないように見守ってあげたいなあと思ったりもします。
 ラストシーン、トメさんが荻野博士の論文を捧げ持ちます。彼女に当てられるスポットライト。少しずつ、柔らかく、変化していきます。そしてその奥、ガラス越しに緑のツタが絡まった屋外の風景が垣間見えています。様々な選択で悩み、でも、自ら決断し、それを受け入れていく女性たちの温かさと強さ。それを見守る自然の温かさと強さ。過去、現在、未来に繋がる、一つの確信のようなものも感じられたラストシーンだったのです。(2011/4/19)

最後には、民族の記憶を
(演劇集団Iプロジェクト「涙の仇討ち」」感想)

 一つのテーマをもとに、2つの劇団がそれぞれ30分物の演劇を競演する「30×30(サーティーサーティー)」。その最終回が火曜日に開催されました。テーマは「最後」。まずは演劇集団Iプロジェクトの「涙の仇打ち」から。なんと大衆演劇です。
 父の仇打ちをしようと諸国を旅していた母と息子。いざ、自分の仇となる与三郎を討とうとした時、そこに彼の娘が現れる。「今ここで与三郎を討てば、今度はその娘さんがあなたの事を仇として狙うようになる。あなたが討たれれば、今度はあなたの息子や娘が、彼女を討つことになる。その連鎖は止めなければいけない」と母から説得される息子。一度は納得して仇討をやめようとするも、最終的には与三郎を討ち、さらに自分も自害して果てることにより、その連鎖を終わりにする。大衆演劇というバックボーンを最大限に生かした筋書きでありながら、決してハッピーエンドでもなく、若干複雑な劇後感を与える作品になっていました。
 最後に自害して終わるところなどは、以前映画で見た「最後の忠臣蔵」を彷彿とさせます。もちろん、恥や苦しい思いを抱えながらも生きていくという選択肢もあり、それはそれで素晴らしいことではあるのですが、逆に自らの命を投げ打つことにより何らかの物事を「終わり」にするということも、また日本人である私たちの民族の記憶の中に宿っている気がします。それはいくら情報化・核家族化の進んだ現代であろうと、東日本大震災関連のニュースの取り扱い方などを見ていると、明らかに厳然としてあります。そういう私たちの中にある共通認識を手掛かりにして作っていく演劇というのも、確かにあるんだろうなと思いました。
 思えば大衆演劇、一度北海道のホテルで旅回りに来ていたものを拝見した程度で、ちゃんと見に行ったことがありません。神戸には新開地劇場という大衆演劇の殿堂もあります。さまざまな種類の演劇を見ることができ、さまざまな演劇への入り口を提供してくれるというのが、30×30の大きな利点。また違った世界へのとっかかりを作ってくれたなあという気もしたのでした。(2011/4/21)

なお歩き続けるために
 昨日、ピッコロ演劇学校・舞台技術学校の入学式に、卒業生として参列してきました。過去2回、学生として参加した式ではあったのですが、やはりちょっと違った感慨を抱いた時間ではありました。
 実は仕事が終わってから行くのでは間に合わないため、1時間の休みを頂こうかとも思っていたのです。ところが、夕方に仕事上でトラブルに見舞われてしまい、式典なのに遅刻となってしまいました。ホールに入った時には、もう入学生の名前を読み上げの時間。副知事さんのあいさつも、来賓のあいさつも終わっていました。とはいえ、この名前読み上げと一人ひとりの「はい」という元気な声が、入学式で最も大切な儀式なのかもしれません。そういう意味では、なんとか間に合ったと言えるかなと思ったりもしています。
 その後の講師紹介ではお約束の仕掛けもあり、ピッコロ劇団員の激励では笑いを取りつつしっかりと前向きな気分にさせていただき、館長からは「卒業生の皆さんも来ていただいており…」とご紹介までいただき、例年同様飽きることのない入学式だったのですが、やはり一番感慨深かったのは校歌「ピッコロ広場」の斉唱でしょう。2年前、初めてあの曲を歌った時は今の「ポップ調バージョン」ではなく、ここに感想を書いていますが、かなり複雑で音がとりにくく、かつ暗い曲でした。入学後しばらくしてから「ポップ調バージョン」ができあがり、調も変えて、だいぶ歌いやすくはなったのですが、相変わらず暗い歌詞ではあります。ただ、それが卒業公演の最後に歌うとしっくりくるんですよね。「いつわりの美しさ」「つかの間の永遠」「かりそめの道づれ」と言いつつ、それを「人であり続けるために」「なお歩き続けるために」と結ぶ、さすがは劇作家さんの作詞だなあと思います。自分も、去年の3月、今年の3月と、あの舞台上で「ピッコロ広場」を歌いました。今年はもう、舞台上で歌うことはない。ちょっとさびしいけど、そんな卒業生を含めたいろんな人々の思いも込めて、1年後、今の新入生の皆さんが、その舞台の上で、ちょっとだけ何かが変わった自分を感じながら、「ピッコロ広場」を歌ってほしい。そんな思いを強く強く感じた、校歌斉唱だったのです。
 そして、一昨年度、昨年度の卒業生の中には、新たに学校へ通うことを決めた人も、違う場所で演劇を続けている人々も、あるいは演劇以外の道で頑張ることを決めた人もいます。それぞれがなお歩き続けるために、それぞれがピッコロで過ごした青春の日々を大切にしてほしい。自分も、大切にしていきたい。そして、「ここへはいつでも帰ってこれる」、ピッコロ演劇学校・舞台技術学校、そしてピッコロシアターが、歩き続けて疲れた時にふらっと観劇や見学に訪れることのできる「母校」であってほしいと心から願っているのです。(2011/4/23)

最後には、あなたの記憶を
(baghdad cafe「もこもこ のこって、ありがとー」感想)

 「最後」をテーマにした最終回の「30×30(サーティーサーティー)」。もう一つの演目がbaghdad cafeさんの「もこもこ のこって、ありがとー」でした。
 ひたすら続く女性2人の会話。観客を意識しているような、意識していないような。ぼそぼそと、とりとめもなく。正直、最初の頃は「どうしよう」って感じでした。しかし、徐々に、母親を含めた外の世界と、微妙な距離を常に取ってきた主人公「もここ」が浮かび上がり、白いふわふわとしたペット・こここが話の中に登場したあたりから、物語が動き始めます。とはいっても、決して「こここ」と「もここ」が心を完全に通わせるようなこともなく。あくまでも小さく小さく、日常の時間が過ぎていきます。地震か何かの強烈な音で暗示される「こここ」との別れすらも、日常の景色の中に溶け込むかのようです。また、一人に戻る「もここ」。しかし、その「こここ」のいなくなった世界も、「こここ」と出会う前とはちょっとだけ違っていて。ひとつひとつの記憶をいとおしむかのような、不思議な不思議な演劇でした。
 終劇後、ちょっとしたトークがあり、そこで「みなさん、分かりました?」という問いかけが司会者と作家からなされました。確かに、決して分かりやすくはない演劇だったと思います。ただ、みんなそれぞれの人生の中で抱えてきた記憶や思い出の愛おしさ、そして記憶や思い出の一つ一つが今の自分や隣人やあなたを形作っている、という思いは伝わってきた気がします。
 劇場からの帰り、阪急電車に乗っていて、つい思ってしまいました。目の前の椅子に腰かけている数名の人々。サラリーマン、おばさん、女子大生風、塾帰りの小学生…。彼らの頭の中、心の中には、どんなにたくさんの思い出があって、どんなに様々な記憶を抱えているのだろうか。そして、一人ひとり、どんなに平凡に見えている人でも、自分の中に様々なものを抱えているというのは、普段はつい忘れがちだけど、本当にとんでもないことだなあと。そんなことをつい思い出させてくれた「もこもこ のこって、ありがとー」。分かりやすい、分かりにくいを越えて、見て良かったなと思えるお芝居でした。(2011/4/25)

がんばれ大阪の小劇場界
(アドシバ!BOUT.33 作・演出家チーム vs 看板役者チーム感想)

 火曜日のゲキジョウのオオトリがこのアドシバ!BOUT.33でした。ちなみに、アドシバ!とは「対戦型演劇バラエティ」ということで、アドリブ芝居の対決。たとえば、オープニングの1分間の芝居だけが作ってあって、残りはアドリブで続けていくとか、あるいはオープニングとエンディングの状況だけ決まっていてそれを繋げていくとか。即興力の試される、楽しい「演劇バラエティ」でした。
 正直、こんなに楽しめるとは思っていなかったほど楽しめた気も。若干、内輪受け的なネタもあったのですが、なんとなく「多分こうなんだろうな」と思えるところがあったり、あるいは同世代だなあと思えるところもあったり。ピッコロや友人劇団でやっていることと似ているなあと思ったり、やっぱりレベルが高いなあと思ったり。充分エンターテイメントとして楽しませていただきました。
 これ以上、内容について語るのも野暮なので、火曜日のゲキジョウのことなど。
 ピッコロ時代の友人が出ているということがきっかけで、結局、4月最後の月の4回は全て見せていただくことになりました。どれもレベルが高く、また単純に面白いものも多くて、本当に平日の一服の清涼剤になった気がします。そして、短時間だから描けないということはない、短時間だからこそ描ける世界もあるということを、改めて認識させられました。平日の夜という限られた時間、限られた空間だったからこそ、逆に高レベルが維持できたのかなとも思ったのです。
 スタッフさんの負担が大きすぎとか、出てもらう劇団探しが大変とか、2ndシーズンに向けては様々な課題もあるようです。ですが、「火曜日そこに行けば必ず何か、レベルの高い演劇が見れる」という状況というのは大阪の、そして関西の文化レベルの向上に必ずつながるはず。OMSも近鉄小劇場もプラネットホールもウルトラマーケットも精華小劇場も無くなってしまった昨今。この「火種」を大切にして、ぜひまた大阪から小劇場の世界を変えるような劇団・劇作家・役者が出てきてほしいと、隣接県の住民としても切に期待しているのです。(2011/4/27)

それでも今日が一番いい日
 最近、「なんでそんなに前向きなの」とか、真顔で言われることが本当に多くなりました。若干あきれられている風でもあるのですが。
 たしかに、40代を目前にして、良くも悪くも今の人生を受け入れられるようになってきたのは間違いありません。「一番いい、ベストの人生ではなかったかもしれないけど、いろんな選択の結果こうなったし、多分もう一度人生をやり直してもこうなるんだろうな」と。そして、その結果に満足ではないものの、納得はしている自分がいるのです。
 その上で、これからも納得できる人生を作っていくために、今後どんな日々を積み重ねていくことができるのか。積み重ねていくべきなのか。楽しいことばかりではないだろうけど、つらいこともきっとあるけれど、それでも今日が一番いい日。楽しみな自分がいます。
 こんにちは、39歳。(2011/4/29)

4/29(金)〜5/5(木)は「富山・長野2県横断の旅」のため、更新しませんでした。

国内旅行の効用
 富山県→長野県2県横断6泊7日の旅、行ってきました。
 ひさしぶりに長期間の国内旅行でそこそこにお金もかかったものの、まあ、国内6泊7日ぐらいだったら、それほど気負いしなくても十分に過ごせるんだなということが分かったのが一つの成果でしょうか。今回は荷物をあえて小さめにして、秋に予定されている長期旅行(本当に行けるのかな)の予行演習という意味合いもあったのですが、最低限必要なものというのも見えてきた気がします。
 旅行記は徐々に書いていきますが、人生もそろそろ折り返し地点に差し掛かってきた中で、なんとなくこれまで来た道と、これから行く道を、ちょっと振り返ることができた気もします。神戸や関西圏にいると、公私ともども様々な日常の些事に影響されて、なかなか大きな視点で物事や自分を見つめなおすことができないのですが、6泊7日も一人旅を続け、日常から離れているといろんなことをちょっと違った視点から見ることができるんですよね。特に国内旅行の場合は海外旅行と違い、安全や習慣という面で悩まされることが少ないため、なおさら純粋にいろんなことを振り返る時間を確保できる気がします。
 帰ってくるなり、いろんな仕事やいろんな課題や、あるいは散らかりまくった自室などが目の前に現れました。あの6泊7日の余韻をどこかに残しつつも、これもまた大切な、いつもの日常に戻って行きます。(2011/5/7)

数字でないと分からないもの 数字では分からないもの
 どうも書くことがまとまらないので、こういうときの定番「私のホームページにやってきた変な検索ワード」をやろうかと思い、久しぶりに調べてみたところ、大半が震災関連の言葉…。とても書ける雰囲気ではありませんでした。私のホームページはもともと「日本のインターネット心理学関連情報」で有名になり、その後「筑波研究学園都市のなぞ」が細く長くロングランで読まれ続け、「国家公務員・都道府県職員・市町村職員を比較」「大学院から公務員」などもそこそこ反響があって、最近では「台北花博」がメインコンテンツだったのですが、ここにきて「東日本大震災の死亡者・行方不明者数」へのアクセスが大半になっているようです。
 もともと公務員というのはこういったデータを扱うのは仕事柄お手の物ですし、さらに私は心理学出身ですからデータを見ながら物事を考える傾向にあります。そして、何人かの方があのデータを様々な場所に転載してくださっており、中には「町の実感とかなり近い」との感想も見かけました。そういう意味では、具体的に何の役に立っているのかはよく分からないものの、ああいったページを作った意味もあるのかなと思ったりもしています。
 ところで、情報をまとめている過程で、氏名の判明できない犠牲者リストというものを発見しました。発見場所(○○沖というものも多い)、推定年齢、性別、身長、身に着けていたものなど、少しでも身元確認の参考になるように詳細にまとめてあったのです。上下つなぎにヘルメット、アルバムを所持、首からお守り、左手薬指に指輪…。私のデータページでは「行方不明者○○人」と書かれてしまっている一人ひとりにも、まだまだ続くと思われた、それぞれの大切な人生があった。それを痛烈に感じた一時でした。
 あの3月11日から、もうすぐ2カ月。数字でないと分からないものと数字では分からないものの両方に、心を寄せつつ。(2011/5/9)

体力の曲がり角?
 昨晩は課の「歓迎会」。本来ならば4月に開催すべきところ、新人さんの研修があったり、みんなの予定が合わなかったりして、こんな時期まで伸びてしまったのです。とはいえ、伸びたことの良さもあって、他の用事とバッティングもしないし、お店もどちらかと言えば空いており、またお互いにある程度分かってからの飲み会なので楽しく過ごすことができました。
 ただ…ビールを小さなコップで10杯ぐらい飲んだところでしっかり酔ってしまい、多少気持ち悪くなってしまったのです。行く前から体調が良くなかったのもあるのですが、これまでビールだけを飲んでいて酔うことというのはあまりなかったので、意外でした。いつもならほぼ必ず参加している2次会も遠慮させていただき、家に帰ってお風呂にも入らずバタンキュー。午前3時ぐらいに一旦目覚めたものの、また寝てしまい、気が付いたら朝でした。最近、明らかにアルコールに対して弱くなっています。以前は酔うこと自体が少なかったですし、酔っても翌日に残ることはまずなかった。大量の飲んでもせいぜい翌日の朝一が気持ち悪いぐらいで、昼食後の午後からはピンピンしていたのですが、最近は午後の仕事もしんどかったりして、早く家に帰りたくなったりしています。
 40年近く生きてきて、人間には体力がなだらかに落ちる時期と、一気にがくっと落ちる時期があるような気も。一番それを感じたのが、22、3歳の時で、「ああ、昔のように無理は利かないんだなあ」ということを痛切に感じたものです。と書きつつ思い浮かべて調べてみたところ、男性の厄年(本厄)は25歳、42歳、62歳(いずれも数え年)だそうで…。もしかすると、厄年というのは経験に基づいた、割と合理的なのものなのかもしれませんね。(2011/5/11)

ネクタイ この不思議なるもの
 今朝は、13日の金曜日だからということもないのですが、なんとなくやる気が出ず、朝から後ろ向きな気分。元気出さないとということで、ちょっと明るめの色のネクタイを締めて出勤。そのおかげか、多少は元気にてきぱきと仕事をこなせた気も。そんな中、突然、上司から送られてきた「夏のエコスタイルの開始時期前倒し」のメール。「スーパークールビズ」に呼応してかしないでか、来週月曜日から、気候に合わせてノー上着、ノーネクタイでも良いという通知。まだまだ寒い日もあるので上着は着る機会もあるだろうけど、私はネクタイ好きではないので、少なくとも職場内ではあまりしなくなるだろう。今日は突然やってきた、「ネクタイとはしばらくお別れだねデー」でもありました。
 このネクタイという代物、ほとんど実用性がないにも関わらず、社会人ビジネスマンとりわけホワイトカラーの代名詞ともなっています。ある漫画か小説で、小さい時のトラウマが元で首に何かを巻くことができなくなり、優秀であるにもかかわらずそれが原因で就職試験を落ち続ける人の話をみたことがあります。確かに、ほとんど何の役にも立たないこの小さな布切れをぶら下げていないと、社会人としてなかなか認めてもらえません。後世の人から見れば(モーツアルトなどのかつらのように)非常に不思議な習慣とみられそうな気も。まあ、世の中すべてが合理的にできているわけでもないので、それはそれとして、Yシャツやスーツとのコーディネートなどと密かに楽しむというのが一番健全なのかもしれません。
 ちなみに今日していったネクタイは、一見しただけでは普通のネクタイだけど、良く見ると「富山ライトレール(ポートラム)」が書かれているという、つけている本人だけがちょっと嬉しいもの。正面から見えない小剣部分にはライトレールのマスコット「
とれねこ」もこそっとあしらわれています。まあ、こういう密かな楽しみも、ネクタイの効用の一つではありますな。(2011/5/13)

音楽の季節(S.M.S ゴスペルクワイア「Available To You」感想)
 昨日、友人がやっているゴスペルのコンサートを聞いて来ました@新神戸オリエンタル劇場。最初は子ども達とお母さんの合唱で、学習発表会といった感じ。それはそれで微笑ましいものの、こんな感じで最後まで終わるのかなあと思いきや、大人だけになってからは素晴らしい曲の数々。レベルは様々なれど一人ひとりがしっかりと歌っている姿も含めて結構しっかりと感動させていただき、休憩なしでもあっというまの2時間でした。
 ゴスペルをちゃんと聞いたことはなかったのですが、割と自由なジャンルのようで、フォークソング風なものやロック風のものなどが取り交ぜられていました。そして、震災復興支援ということもあってかとは思うのですが、苦しい中から、それでも立ち上がっていこう、という曲が多かったかなと。もともとゴスペル自体が、アメリカで厳しい生活を強いられていたアフリカ系アメリカ人(いわゆる黒人)の信仰と生活の中から立ち上がってきたということもあるのかもしれません。素直に神を賛美する単純な歌詞で、曲調や拍子も決して複雑ではないのだけれど、そこには一度絶望を潜り抜けてきた上での楽観主義、前向きさがあるのかなと。単純であるがゆえにその精神性が如実に表れるという点では、岡本太郎の作品や榊莫山の書にも相通じるものがあるのかもしれません。
 ちなみに、このあと演劇を見に行ったのですが、演劇というのは演じる側と観客側に共有する文化(太平洋戦争、動物の処分、銭湯、大衆演劇…)があることを前提とする芸術なんだなと。逆に音楽は、歌詞が分からなくても、伝わってくる何かが確実にあります。音楽は国境を越えるとはよく言ったものです。もちろんどちらが優れているというわけではありませんし、音楽でもその音楽的背景やあるいは歌詞の意味を知る方がより深く理解できるのは間違いないのですけどね。ともあれ、演劇もいいけど音楽もいいなあ、久しぶりに生の音楽も色々と聞きに行きたいなあと、改めて実感した一時でもあったのです。(2011/5/15)

泡がなければサイダーではないから(遊気舎「エエトコ」感想)
 日曜日、新神戸オリエンタル劇場→KAVCとはしごしてきました。KAVCは演劇。遊気舎といえば昔から有名な劇団さんなのですが、実は初見。ピッコロ本科卒業公演の演出家さんが出演しておられるので行ってみたのです。長い活動歴&地元密着もあってか、さすがに客層は幅広く。ただ、満席ではなかった&ピッコロの知り合いに会えなかったのはちょっと残念(他の日にはいたらしいんですけどねー)。
 いろいろと良いところも、自分の気に入らないところがあったのですが、最終的にはきちんと一つのお話に仕上げてしまうところは流石。私のように「乙骨さん」や「羽曳野の伊藤」が何者であるか分からなくてもなんとなく話にはついて行けますし、逆に神戸の動物園の歴史や諏訪子などを知らなくてもまあついて行けたのではないかと思います。若干過剰にお涙ちょうだい的なところがあったような気もしますが、最後の数分間、そしてラストシーンの締め方は極めて衝撃的で演劇的。単なる感動ものでも、教訓ものでもない、まさに「一緒に考えよう」というセリフを体現した、実に演劇的なラストシーンであったと思います。あれが見れただけでも、体調がどんどん悪くなる中、無理して行ったかいがあったかなと。
 スタッフ関係では、密かにすごいなと思ったのが音響さん(Alain Nouveauさん)。私はこれまで存じ上げなかったのですが、惑星ピスタチオの音響さんとして有名な方だったとか。とにかく、決して主張はしないのだけど、場の空気を作っていくその音響にはある意味びっくりさせられました。いまいち本編に乗りきれなかったのは、途中から音響の出方に注意が向かってしまったのもあるかもしれません。(まあ、そんなことは舞台技術に興味のある人間ぐらいにしかないのでしょうけど。)そして、近年の小劇場界には珍しく作り込んだ美術セットも、時代背景を明らかにするうえで非常に効果的。扇風機やホース、さらに軒先の地面に落ちる葉っぱなど、なかなか芸が細かかったです。そして、過剰ではなくあのラストシーンを作り上げた照明ももちろん立派。昔から続くよい劇団にはよいスタッフがちゃんといるのだなあということを改めて感じさせていただいたのです。
 若干引っかかったのが、自分たちの人生なんて所詮「サイダーの泡」に過ぎないと認識した後でさあどうやって生きていくのか、ということがあまり描かれていないところ。萌芽は見え隠れはするのですけどね。もちろん、それを含めて「一緒に考えよう」なのかもしれませんし、そのあたり、お客さんに媚びすぎないところもまた老舗劇団ならではなのかなとも思いつつ、劇場を後にしました。(2011/5/17)

いつの時代も、二十歳は原点
 先日とあるきっかけで、甲南大学専任講師の阿部真大さんの講演を聞くことがありました。1時間程度だったのですが、ゆとり世代などと言われる現代の若者の特徴を、社会学的な立場から、非常に見事に切り取っておられました。そこで、興味を持って阿部氏の書いた本をざっと読んでみました。「搾取される若者たち−バイク便ライダーは見た!」「働きすぎる若者たち 「自分探し」の果てに」「合コンの社会学(北村文氏との共著)」「ハタチの原点」です。この中で意外に硬かったのが「合コンの社会学」だったりするのですが、それを含めても、どの本も読み物としても非常に読みやすくできています。
 実は私、ピッコロに2年間通っていた成果の一つとして、割と若い年代の方々と絡むことが多かったのです。そういう意味では彼ら・彼女らの考えていることや志向などはある程度は理解していたつもりだったのですが、やはり学者の方にスパッと切ってもらうと、逆に改めて理解が出来る部分もあるなあと。そして、それと同時に思ったのが、「実は自分って、かなり時代を先取りした生き方をしているんだなあ」ということ。大学院に行ってモラトリアムを延長しながら、公務員というちゃんとした職を得て、家庭は作ったもののそこにも固執せず、仕事はそこそこにしつつも決して深入りし過ぎず、仕事以外の場所にネットワークややりがいを見出している。自分ではあまりそう考えたことはなかったのですが、ある意味時代を体現した、なかなかにしたたかな生き方をしていたのかもしれません。
 2010年代の20歳には、自分が敬愛する親や親世代の規範との葛藤に悩む姿も、自分の党派色を確立しなければならない辛さも、理論で行動する学生とホテルの労働者との違和感も、妻子ある人への片思いもありません。でも、自分の好きなことを仕事にしたい、打算のない恋愛がしたい、自分が就職する時には景気が良くなっていてほしい、そして癒されたい…たとえそれが社会学的には周囲の環境や社会に影響されたものであったとしても、それぞれが個人個人にとっては切実で大切な、二十歳の原点であることには違いないのです。(2011/5/19)

キャラメルですが、久しぶりに甘くない意見です。
(演劇集団キャラメルボックス「ヒア・カムズ・ザ・サン」感想)

 金曜日、朝、ある人の日記を見ていてキャラメルボックスが大阪で公園をやっていることに気づき、昼休みにチケットを買いに行き、晩には梅田でキャラメルを見ていました。我ながらかなりの即断即決ではあったのですが、こういうことができるのが京阪神に住んでいるものの強みだなと。いわゆる田舎に住んでいると観劇のために都会まで出てくる時間や費用もばかにならないし、逆に東京の場合キャラメルの当日券なんてそうそう手に入りませんからね。
 さて、今回はハーフタイムシアターということで、1時間芝居の2本立て。まず1作品目は新作「ヒア・カムズ・ザ・サン」。純粋新作ということで期待して行ったのですが、正直、期待外れでした。なんといっても、1時間の話に押し込むにはあまりにもネタが多すぎなのです。離婚して家を出て行った父親とその娘の上司で彼氏(真也)との友情物語、というのが本論なんでしょうが、当然父娘関係も出てくるし、父親本人の話も出てくる。そこに、真也の母親だの妹だのが出てくるので、1時間という短い時間の中で、そもそも誰に感情移入していいのか、なかなか分からないのです。それぞれの登場人物に陰影だの思い入れだのがありすぎて、頭の中で整理するのが大変なのかもしれません。
 さらに、お話の中で大切なのが真也が持つ、「物に残っている記憶を見ることができる」という能力なのですが、そういう能力を持つことに対する恐怖心もあまり切実ではないし(母親と妹の慌てぶりは良かったですが)、その能力自体、話の中であまり効果的に使われてはいなかった気がします。白石を探るという指示があった以上、なぜ白石とずっと一緒に旅してきたであろうトランクになぜ真っ先に飛び付かなかったのかもよく分からないし。能力が単に話の筋に沿って使われているだけで、唐突感が否めません。
 スタッフ関係でいうと、一本大きな木が舞台中央にどんーと鎮座しているのは視覚インパクト的には効果があるのですが、これも意外と話の中でちゃんと使われない。(ブランコだけなら何も木にする必要はないんですよ。石神井公園の何かをイメージしているのかもしれませんが、そんなこと関西人には分かりません。)そして、観劇に来ていた高校生たちは「あんな照明初めて見た」と興奮気味でしたが、ムーミングやネタ入りの照明も多用しすぎで、正直、目にうるさい部分がありました。お話の内容からいっても、大木と公園風ベンチというかなり具象的な舞台美術との比較から言っても、今回の「ヒア・カムズ・ザ・サン」においては、照明は引き気味の方がいい気がします。一方で、キャラメルお得意の追跡・すれちがいチーンの照明・音響・演技も、役柄上白石が全力で走れないという事情は分からなくもないものの、若干いつもの緊迫感に欠けた気も。なんとなくちぐはぐ感がいろんなところに見え隠れしたのです。
 新作で、本番はこれで2回目なので、今後ますます進化するのかもしれません。また、震災の対応や看板役者の降板などで、劇団自体がいろいろと大変な状況に陥っているという事情もあるようです。とはいえ、小劇場時代を代表する栄光の老舗劇団が、お金をとってやっている以上は、常に一定以上のレベルのものを見たいなと思ったりもします。厳しい意見ですが、キャラメルへの感想は、お話の内容がいつも感動的なためか、自他ともにどうしても甘めになってしまいがちなので、あえて記させていただきました。(2011/5/21)

キャラメルはこうでなければ。
(演劇集団キャラメルボックス「水平線の歩き方」感想)

 ということで、キャラメルの2作品目は再演の「水平線の歩き方」。実は初演の2008年に見ており、お話自体は知っていました。当時そこそこに感動した記憶があるのですが、なんといってもピッコロに行く前。明らかに自分自身の見方が厳しくなってきています。ということで若干不安だったのですが、「やっぱり良かったなあ」というのが正直な感想です。
 まず特筆すべきは、その舞台美術でしょう。左右シンメトリーで、中央にまるで浮島のごとく2間四方ぐらいの部屋が八百屋(ななめ)になっています。後ろには、いかにも切り取りましたというような真四角の壁。数枚のパネルが端整に配置されただけの上手下手の壁。丸見えのホリゾント前には、H型をした大きなアーチ。一見何にも考えてなさそうで、舞台美術の勉強を始めたばかりの人が「必要なのはこれとこれ」と言った感じで作ってしまったような舞台セットです。でも、この作品を見た人ならば、それぞれが大きな大きな意味を持っていることが分かるはず。そして、それが強引でなく、しっかりと役者の演技を受け止めているのです。そして圧巻は、ラストシーンの、広がる一面の青とシルエット。これまでのキャラメルにはあまりなかった「見せる舞台美術」だったなあと思います。
 役者さんたちも、みんなのびのび。特に良かったのが、「若い母親」役の岡田さつきさん。ひょうひょうとしたシーンも、衝撃的なシーンも、真面目なシーンも、全部自分のものとして演じているのが良く分かります。そして阿部先生役の前田綾さん。まあ、大ファンなわけですが、やっぱり白衣とか女医さんとかスマートでいてそれでも情熱的、そういう役が似合いますよね。もちろん、主役である幸一役の岡田達也さんも、栄光を味わった上で挫折した男の自信と不安とを実にうまく表現。キャラメルはこうでないとと、改めて感じさせてくれたのです。
 ただ、この作品の最大の良さは、やっぱり「水平線までの距離」という着眼点。たった4.4キロ、歩いていけば1時間もかからない距離だけど、永遠にたどり着けない場所。だけど、そこから感じる、「ほんとうは時々見ていたからね」というわずかだけれども温かな視線。そして、自分がその水平線に立ってはじめて感じる、阿部先生をはじめとするみんなからの生きることへのエール。よくこんな話を思いついたなあと思います。キャラメルの良さというのは、独特の選曲やかっこいいダンスシーン、かっこいい役者さんたちや音楽や照明を活用した独特の盛り上がり方などもありますが、やっぱりお話の良さなんですよね。それを改めて実感しました。
 坂道のある町・神戸では水平線の向こうは多分4.4キロよりちょっと先。ふとしんどくなったとき、水平線の向こう側のことを思い浮かべてみようかなと、ちょっと思ったりもしたのです。(2011/5/23)

いろいろなミカタ(伊丹想流塾第15期生公演「正義の味方」感想)
 阪神間には演劇メインを標榜するホールが結構あるのですが、そのうちの一つが伊丹市のアイホール。そのホールがやっている脚本塾が北村想氏率いる「伊丹想流塾」で、その卒業公演が先週末に開かれました。
 通っていた友人に聞いたところ、毎回何らかのお題が出て、それに合わせて短い戯曲を書いていき、指導を受けるとのこと。ということで、今回の19作品も、共通のテーマによるものがあったり、全く違ったものがあったりとバラバラ。見る側としてはなかなか大変でした。とはいえ、それぞれに楽しいお話が多く、作品転換のテンポも良いので、あっという間の1時間50分でした。
 ちなみに、個人的に好きだった作品をあげてみると、「太田さんの家族」(小道具の使い方が秀逸。2人のやり取りも実に演劇的)、「半世紀の味方」(ありがちではあるものの、役者さんの演技で見せる作品)、「舞台の裏」(舞台に限らずどの世界にもある、ふとした一瞬を切り取った好作品)、「代償」(淡々とした登場人物と、湯豆腐のコントラストが見事)、「自転車芸人」(照明と舞台装置で観客を一気に引き込む怪作品)、「控室」(決して押しつけではないメッセージ性が心地よい)ぐらいでしょうか。もちろん、他にもいろいろと素敵な作品はあったのですが、あくまでも自分の趣味で上げさせていただきました。
 どれも短い話ということもあって、逆に作者の方の好みが前面に出てくるんですよね。コント風なものもありましたし、落語のように最後にオチで締めるもの、分かりやすい会話を心掛けているものから多義的なセリフを愛用するもの、照明や舞台装置を存分に活用したものから全く使っていないものまで、本当に千差万別なのです。同じお題であっても、作者によって様々な見方ができるし、様々なセリフが出てくるし、様々な演じ方がある。演劇の幅広さをまた再発見できるという意味でも、なかなかに楽しい公演だったのです。(2011/5/25)

人生の機微を乗せ、電車は走る
(映画「阪急電車−片道15分の奇跡−」感想1)

 阪急今津(北)線の西宮北口〜宝塚を舞台にした有川浩氏の小説「阪急電車」。ご存知の通り、この春映画化されました。かなり大好きな作品なので、どんな映画になったのか、多少不安を抱えつつ先日、見に行きました。ちなみに、兵庫県内各地でロケが行われていたので、どこが出てくるのかという楽しみもありました。
 感想としては、なかなかうまくまとめたなあと。もともとがいろんなお話が相互に関連付けられながらオムニバスで走るという、若干映画化しにくい小説だったので「大変かなあ」と思っていたのです。ですが、これを本編では最初と最後を飾る「征志とユキ」のお話をカットするという大胆な手法で、うまくまとめ上げていました。実はこの「征志とユキ」話、図書館が出てきたり、高知のお酒「径月」が出てきたり、いわゆる「はじめて物語」だったりと、有川調炸裂なんですが、確かに他の話とはあまり絡んでいないんですよね。そういう意味では監督さんよく思いきったし、原作者の有川さんも良く認めたなあと、正直感心しました。
 代わりに前面に押し出されたのが、「ダブルショウコ」のシーン。小説内ではたくさんあるエピソードの一つに過ぎず、少女ショウコに至っては5ページぐらいしか出てきません。ただ本作品で一番大切な駅・小林駅に置かれただけあって、確かに「人は人によって励まされたり、温かくなったりするし、それは世代を越えていく」というメッセージを一番良く表しているお話。自分自身、小説「阪急電車」の中で一番好きな章でもあります。その少女ショウコを、最初から何度も伏線的に使いつつ、最後の最後だけ凛とした姿を見せるというのは、お話を知っているにもかかわらずつい涙してしまいました。少女ショウコ役の女の子(高須瑠香さんというのだそうです)の演技も、それをうまく引き出す翔子役・中谷美紀さんの演技も、とっても素敵。若干「実際にはあり得ないよなー」というお話ではあるのですが、それも含めて作品の主題とも映画の雰囲気ともぴったりだったなあと。だからこそ、このエピソードを持ってお話が終われたのでしょう。
 話は若干前に戻りますが、タイトル直前に、坂道を登る少女の後ろ姿をバックに、次のようなナレーションが流れました。「人はみな、死にたくなるほどではないけれど、それぞれ悩みや苦しみを抱えながら生きている」と。確かにそうなんだろうなと。直接人生の機微に触れることは奇跡でも起こらない限り滅多にないけれど、今この電車の中に乗っている人々は、必ずそれぞれに様々な悩みや苦しみや、楽しみや喜びを持っているはず。それが分かるのも楽しいし、分からないのもまた楽しい。電車に乗っていて、満員の観客一人ひとりを眺めながら、ついそんなことも感じてしまうのです。(2011/5/27)

物語のある街を、電車は走る
(映画「阪急電車−片道15分の奇跡−」感想2)

 小説「阪急電車」を読んだ時にも、映画「阪急電車」を見た時にも感じたのが、阪急今津線の駅は一駅一駅が違った表情を持っているなあということ。作中では「小林駅」が「いい駅だから」と薦められているのですが、これは作者に最もゆかりがあること(笑)による様子。西北、東北、西南、東南とそれぞれに違った顔を持つターミナル・西宮北口駅、制服のない神戸女学院の中高生が通う門戸厄神駅、ピクニックに行く人と競馬場に行く人が交錯する仁川駅、砂防発祥の地・逆瀬川を擁する逆瀬川駅、音楽学校に歩いて通う学生さんをよく見かける宝塚南口駅と、それぞれの駅と街が独特の空気を持っているのです。(作品には残念ながら出てこない阪神国道駅と今津駅も、他の今津線の駅とは全然違う空気を持っている駅です。)これは単に今津線だけの話ではなく神戸本線の駅もそうで、西宮北口と夙川、芦屋川、岡本、御影、六甲…とみな雰囲気が違います。そして、おそらくそれぞれの駅を使っている人は、自分の駅と街が一番好きなんでしょう。
 もちろん全国どの街どの駅でも多少の違いはあるのでしょうが、それぞれの街が有する歴史や生活文化の質の高さ、その品格という点では阪急電車沿線は特筆すべきものがあろうと思います。阪神間モダニズムの名残なのかもしれませんし、阪急などの鉄道会社や白鶴・菊正宗などの酒造会社をはじめとする関西財界、さらには阪神間の自治体が進めてきた文化事業・文化施策の成功、あるいは他人と違ったことをよしとする関西人(とりわけ神戸人・阪神人)の気風もあるのかもしれません。いずれにせよ、一つ一つの街と駅が違った表情を持っている阪神間だからこそ生まれた作品が「阪急電車」なんだろうし、この地域にまた新たな文化的色彩を与えてくれた作品が「阪急電車」なんだろうなと。そういう意味でも、この作品にはありがとうと言いたくなってしまうのです。 (2011/5/29)

ねえ…手つないでもいい?(ままごと「わが星」感想)
 すごい作品でした。見た後、ここまで引きずる作品は、ランニングシアターダッシュの「THE END」、芝居屋坂道ストアの「あくびと風の威力」以来かもしれません。
 これを見に行ったのは、地球の描かれたパンフレットに引かれたのと金曜日の晩に見れるというのが大きな理由だったため、正直、ほとんど予備知識がなかったのです。なので、まずは会場に入ってびっくりしました。なんと会場の中央が円形の舞台になっていて、客席はこれを8方向に取り囲むように設置されているのです。そして、始まる前に舞台監督(制作)さんから「あと4分で会場が暗くさせていただきます」「あと4秒で会場を暗くさせていただきます」「途中で4秒間の休憩をはさんで」などと不思議なアナウンスメントが入ります。全ての電気が落ち、劇が始まっても、どこか普通の演劇とは違います。規則的に鳴っている時報のリズムとかすかに動く音楽に合わせて、役者さんたちが不思議な言葉遊びを群読しながら、円形の舞台をどうどう巡りしていくのです。気になるセリフなどはちょこちょこてくるのですが、正直、「役者さんたちは巧いけど、何だか不思議な、今風のお芝居だなあ」と思っていました。これが4秒の休憩前までの感想です。
 ところが、その休憩4秒後から、まるで謎解きのごとく、もう一度物語が長くしたり短くしたりしながら進んでいきます。人の一生の100年と、地球の一生の100億年をオーバーラップさせながら。生まれてから死ぬまで永遠に孤独であったり、近い関係に見えても少しずつ離れていく存在であったり、見守っているだけで永遠にその場に辿りつくことはできなかったり、でもお互いに心の通じ合う瞬間があったり。そんな日常であたりまえで、日常であたりまえだと思っていることが、いかに特別で大切で奇跡的なことであるのか。それを決して押しつけがましくなく、単調な時報のリズムと優しい音楽と歌のような役者のセリフとで、ずんずんと訴えかけてくるのです。「生まれるわたし」「見ているわたし」「死んでくわたし」の話を、「ハッピーバースデートゥーミー」と、前向きでも後ろ向きでもなく、しっかりと真摯にとらえることの決意と勇気。そんな決意や勇気を、わたしもあなたも持っているからこそ発することができる、「ねえ…手つないでもいい?」という言葉。時報のリズムが鳴り響く会場内、感動がすこしずつ静かに広がっていくのが確かに感じられたのです。
 もちろん、あまりに内省的なセカイ系作品だとか、役者の動きがあまりにも技巧的で感情移入の余地がないとか、音楽による集団陶酔効果を狙ったものとか、厳しい現状を無邪気に受け入れすぎとか、明るいノスタルジーに流れすぎとか、いろんな批判も分からなくもありません。しかし、そんなこんなも含めて、実は奥にいろんな事を抱えながらも、分かりやすく前向きな世界を描くことができたのが「わが星」の良さなのかなあと。若干、信者になってしまっているのかもしれませんが。
 観客一人ひとりに、いまここにあることの大切さを気づかせるとともに、いま隣にいる人との関係の大切さも気づかせること。月ちゃんのセリフ「あの日、アポロを送ってくれてありがとう」、そしてちーちゃんの「ねえ…手つないでもいい?」…。もうちょっと「わが星」病は続きそうです。(2011/5/31)

さて、6月です。旅行の季節…?
 あっという間に梅雨が来て、6月になってしまいました。
 私は実家に帰って来てから、気分転換も兼ねて毎月1回はどこかに泊りで旅行に行くのを義務付けている(?)のですが、一番行きにくいのが実は6月。1月・2月はスキーがあるし、3月は春なのでなんとなく出かけたくなるし、公務員職場は年度終わりのどさくさで意外と休みやすい。4月・5月はゴールデンウィークでどこかには行くし、7月は海の日3連休や職場旅行、8月は夏休みでみんな休むので休みやすく、9月・10月・11月はハッピーマンデー3連休もあって、時にはシルバーウィーク風なのでまさに旅行シーズン。ということで、6月と12月がなかなかに鬼門です。ただ、忙しいものの冬休みがある12月に比べても、6月は公務員の世界では新年度の事業立ち上げの時期でもあり意外と多忙な上、梅雨ということでなんとなく旅に出るのが億劫になってしまうのです。ゴールデンウィークの大きな旅行の余韻が冷めないうち、夏休みの大きな旅行の計画を立て出す時期、というのも悪い気もします。さらに個人的な事情ですが、最近は夏休みに行うさまざまな演劇公演のお手伝いが絡んでいるのも、かすかにディスアドバンテージになっています。
 今年も4月〜5月は富山・長野の結構な長期間旅行でしたし、7月の職場旅行の行き先が海外(韓国ソウル。今年2回目ですが)ということで、のんびりしていると6月が飛んでしまいそうです。雨を眺めながらの中国地方の鉄道旅行も素敵だなとか、外湯や露天風呂のある温泉街でネットを忘れて本を読んだり散歩したりしたいなあとか、神戸港からフェリーで知らない街に行ってみるのもいいなあとか、あるいは趣向を変えて神戸市内に突然泊ってみるのもありかなとか、いろいろと夢は広がるんですけどね。まあ、どうなりますことやら。
 ということで、2011年の6月、スタートです。(2011/6/1)

頑張る。頑張らない。頑張って。頑張らないで。
 舞台技術学校に行かなくなって、一番大きく変わったのが演劇を見に行く機会が増えたことと、図書館から借りて読む本が増えたこと。戯曲や演劇原作から、新書、旅行ガイドブック関係、さらには涼宮ハルヒまでかなり乱読気味ですが、そんな読んだ本のなかで気になる記述がありました。「日本を降りる若者たち」(下川祐治著・講談社現代新書)という、タイで「外こもり」をする若者たちに触れた本です。
 日本でアルバイトだのなんだのでお金をため、タイ・バンコクの安宿街(カオサン通り)や安アパートで数カ月を過ごす若者たち。過去の「沈没」組とは明らかに違ったスタイルが生まれつつあります。この本を読んでいると、それぞれにいろんな人生と必然性があるということが分かり、それはそれで面白かったのですが、気になったのは最後に付けられた「ラグンナム通りの日本人たち」という付章(この章のみ、東京大学大学院総合文化研究科の小野真由美さんが執筆)。カオサン通りなどの怠惰(?)な外こもり族とは違い、タイで語学学校などに通い、難しい語学試験にパスして、現地採用として日系企業などに就職していった、真面目なタイ長期滞在者であるラグンナム通りに住む人々のことが書かれています。そして気になるのは、その結び。多少長くなりますが、引用します。
 結局、日本人は「頑張る」という言葉を巡って人生が展開される、そうも思える。いや、日本人というより、資本主義の世の中では、どこも同じなのかもしれない。(中略)外こもりとラグンナムの比較から見えてくるのは、突き詰めると、近代がどういう時代であったか、そして、近代資本主義がもたらした豊かさに対する問いかけなのかもしれない。(同書p.216)
 資本主義云々というのは私には良く分からないのですが、確かに近代というのは「頑張る」ことが最重要視された『アメリカンドリームの時代』であったのかもしれません。ただ、今の時代、頑張るだけではどうしようもないし、頑張る頑張らないだけで全ては決定しないということが分かってしまったのかも。災害被災者や落ち込んでいるに対して「頑張って」と言わない方が良いなどという言い方もよく聞くようになりました。「頑張る」「頑張れ」という言葉がネガティブになりつつあるのです。とはいえ、頑張って社会階層をあげたり、お金を稼いだりする以外に、物質的・精神的に豊かな生活を送ることができないという現実もまた変わっていない訳で、そこらへんに大きな矛盾と断絶があるような気もしているのです。
 ちなみに、私の海外旅行歴はかなり偏っており、実はまだタイ・バンコクに行ったことがありません。一度行ったらはまってしまって、もしかしたら早めにリタイヤしてカオサン通りに外こもりしているかも。まあ、それもそれで十分ありの、一つの人生ではあるんですけどね。(2011/6/3)

どうすれば地球は侵略されずに済むのだろう
(イキウメ「散歩する侵略者」感想)

 この週末は、金曜日にピッコロ劇団「螢の光」、土曜日はイキウメ「散歩する侵略者」、日曜日がコトバグリ「メェメと鳴くのは動物だからそうさ」と、観劇尽くしでありました。「螢の光」はまだ来週水曜日まで続くので、まずはあまりにも特徴的な劇団名のイキウメから感想を。
 私自身は3度目のイキウメ(見えざるもの→プランクトン)。前に見た2作品とも高品質な脚本、完結だけれども過不足ない舞台装置、非常に繊細に変化する照明と音響、そして訓練された役者と、まさにプロフェッショナルの舞台でした。なので逆に興味を失いかけていたところもあったのですが、友人からのお薦めもあり、見に行くことにしたのです。私はあまり知らなかったのですが、この作品がイキウメの代表作で今回が再々演とのこと。それだけ評価の高いものは見ておくべきですよね。
 コンクリート壁を意識した灰色で、壁のみならず小道具類も色調を統一した舞台装置。そして、それを意外な色で微妙に染めあげていく照明。密かに、そして時には激しく舞台に登場してくる音響。今回も超一流のスタッフワークが繰り広げられました。そして役者さんが良いのも同じ。特に奥さん役の伊藤佳子さんのひたむきさと、宇宙人中学生役の大窪人衛さんのいやらしさ(笑)は特筆すべきものがあります。ただ、この作品の良さはやはり物語。概念とは何か、概念を奪うと人はどうなるのか、そもそも概念がない時には人はどう行動するのか、そんな非常に哲学的な話題(作者は東洋大哲学科卒)を分かりやすいストーリーと役者の演技で、決して押しつけがましくなく提示してくれるのです。
 ちなみに、このお話、再演・再々演とラストシーンがどんどんかわっているのだそうで、「愛」という概念の話で終わったのは今回が初めてのようです。これは作品の主題を明らかにするうえでは非常に良い改変だと思うのですが、逆に戦争反対を訴えるフリーターのお話が更に浮いてしまった気も。哲学的な問いに答えるのには「所有」なき「戦争」というのはいいモチーフだとは思うのですが、再再再演では更に書き変えないと行けないのかなあとも思ったりしました。
 ちなみに今回のラストシーン、「愛」という概念を失った鳴海が真治に対して「この人は侵略者だから」と冷たく言い放ちます。それに対して真治が最後に絞り出すようにつぶやくセリフ「それが、いまはもう、分からないんだ…」。そして右手を前に突きだし、鳴海の方へと近づいていく真治。素晴らしいスタッフワークも、素晴らしい役者さんの技術や能力も、素晴らしい台本のものいいや構成も、全てがこのラストシーンに結実していたのかなと思ったりもしたのです。(2011/6/5)

高さ54メートル 空と地上の間
(コトバグリ「メェメと鳴くのは動物だからそうさ」感想)

 日曜日の千秋楽に見てきました、コトバグリ。「コトリ会議」という劇団と、「baghdad cafe’」という劇団の合同公演です。「baghdad cafe’」さんは以前見ており(感想)、その不思議な世界観にかなり引かれるものがありましたので、今回多少無理をして見に行くことにしました。
 薬の被験者のごとく、マンションのワンフロアに1カ月近く缶詰めにされているアルバイトたち。毎食常に同じものを食べなければならず、お菓子などは禁止。ところが、これは食品の評価ではなくて、その盛ってある食器の評価という、訳の分からないもの。みんないやいやながらもレポートを書いている。若い男女が何人か集まれば、当然いろんな恋愛関係も生まれ…。そんな中、突然「あなただけは赤い色の食器で食事してください」という貼り紙が部屋に貼られ、一人ずついなくなり…。
 こうまとめてしまうと、なんとなくミステリー調に見えるのですが、実際は決してそんなことはありません。そもそもこのアルバイトがどんな目的だったのかとか、なぜ赤い色の食器でなければならなかったのかとか、いわゆる謎解きは(少なくとも私が認識している限りでは)ほとんどなかったのです。ですが、その中で人々が様々な悩みや秘密やコンプレックスを抱えながらも生きていく姿を、独特のセリフと動きで見事に表現していたのです。
 正直、120分は長すぎる気もし、最初は「これって本当に面白いんだろうか」と若干半信半疑。みんなが笑っているシーンでもなかなか笑えなかったのですが、最後の30分ぐらいはしっかりとその世界に取り込まれていました。別に特段大きな出来事が起こるわけでもなく、音楽や照明が盛り上がるわけでもなく、でも登場人物たちが浮き上がってくるんですよね。決して格好良くもないし、不器用だし、行動もわけわからないし、でもそれを温かく見つめる視線がどこかに感じられたのです。
 この世界を支えたのが、独特の舞台装置でしょう。会場の真ん中に舞台があり、左右に客席が対面している形だったのですが、その舞台の土台は全て水色。それも、昔の遊園地で見かけたような、いかにもという水色なのです。そして、原色系のスツールが数個。そして、机は白。スツールの色は作品中で重要な役割を果たすUNOをイメージしているのかなとも思いましたが(UNOにピンクはないので違うかも)、なんともポップです。この、地に足付いているようで付いていないような、ファンタジーの世界に飛んでいきそうで飛んでいかなさそうな舞台装置が、決して様式的ではないんだけど感情を爆発させるわけでもないコトバグリの世界と実に合っていました。途中で、「ここは18階、1階分が3メートルとすると標高何メートル?」というようなセリフがあるのですが、中途半端な高さの浮遊感と、その浮遊感の中でも生きていかなければならない私たちを、見事に表現していたと思います。
 今回もう一つ感じたのは、表題(タイトル)の力。この作品、「メェメと鳴くのは動物だからそうさ」という題名なのですが、一見して内容が分かることはまずありません。そして、観劇後も多少のヒントは与えられるものの、決して明確には提示されないのです。でも、提示はされないけれど、どこか「そうさ」という諦念と決意に納得してしまう自分がいる。セリフの節々にも感じられた言葉への細かい気遣い。「コトリカフェ」というありがちのユニット名でなく、あえて「コトバ」と出してきたのもうべなるかなと思ったりもしたのでした。(2011/6/7)

螢に「思い」をのせて(ピッコロ劇団「螢の光」感想)
 初演を見てきた「螢の光」。尼崎が舞台の作品を、尼崎出身の劇作家が書き、尼崎市が実施する近松賞をとった戯曲を、尼崎のピッコロ劇団が、尼崎のピッコロシアターで演じる。作品の前評判も高く、ピッコロ関係者はもとより多くの人が期待していました。その期待はかなりの部分でかなえられたとともに、逆にちょっとなあというところもあった作品でした。
 良かったことの一番は、とにかくお客さんが入ったということ。少なくとも週末はほぼ満席だったそうです。オール尼崎ということで地元の方も多かったですし、作者が一時代を築いた芝居屋坂道ストアの角ひろみさんなので往年のファンも集まったのかもしれません。ともあれ、近年のピッコロ本公演の中ではかなり客入りの良い方ではなかったかと思います。普段あまり演劇を見に来る機会のない人々に、生の演劇のすごさを伝えることができた。これが本公演の良かった点の一つかなと。人が入って何ぼのもんという部分がプロの演劇にはありますし、満席の劇場というのはそれだけで違った空気が流れているものです。。
 あとは、角さん独特の、畳みかけるような女性のセリフ回し。特に鈴子のセリフとテンポが実に小気味よく、「ちょっと生活に疲れているし、若干何かに取りつかれた感はあるけど、今でも十分綺麗な異性の幼馴染」という役柄と道幸千紗さんとが、実によく合っていました。実は鈴子役はダブルキャストになっており、杏華さんの回はまた全然違う印象だったとのこと。都合で観には行けず残念でしたが、そういう楽しみもまた劇団本公演ならではです。また、ミステリアスな人妻・木全さん、全く違った意味でミステリアスな人妻・亀井さんも実に雰囲気が良かったです。
 数多い小道具の登場の仕方と使われ方も見事。表題にもなっている蛍はともかく、生協の共同購入のケースとか、ペットボトルの魔法水とか、ココイチのカレー弁当とかたこ焼とか、溶けかけてもう食べてしまうしかない冷凍食品とか、エアコン室外機のハチの巣とか、電気スタンドに照らされる鉢植えの花とか、赤い糸でぐるぐる巻きにされた30万円とか、とにかくいっぱいいっぱいの小道具が出てくるのですが、それぞれが象徴的・寓意的な意味を持っていたり、劇中で効果的な役割を果たしたりしていました。それぞれの調達だの制作だの、裏での管理だのはかなり大変だろうな…とつい思ってしまうのは、やはりスタッフなんでしょうか。
 一方、本作品でしんどかったのは、「大ホール」。この作品、おそらく100人規模の舞台で演じられるのが最も適当な内容なのです。演出家曰く、「それをいかに大ホールでみせられるかというのは、演出およびスタッフチームのがんばらなあかんところかな、と思っています」(小冊子intoより)。確かに、団地の一室を切り取ったかのような舞台美術、エリアエリアを区切りながら照らす照明、音の出る場所を細かく変えて動かした音響、近づいたり離れたりして人物の関係性を表現した立ち位置、私が言うのもおこがましいですが本当に全力を傾けたんだろうなと思います。ただ、それがどうしても対症療法的に見えてしまうというか、しっくりとくるまでには至っていないんですよね。下手側の人からは物語で重要な意味を持つベランダがほとんど見えなかったという話も聞きました。A列を全部外したためキャパが無くなり、そのうえたくさんの人が観に来たという事情も良く分かるのですが…。
 あとは、やっぱり角さんは女性を描く人なんだなと。女性3人の個性的で魅力的な姿に比べて、男性2人の動きやセリフはどうしても平板に見えてしまうんですよね。まあ、これは私が劇団員全員が女性だった坂道を知ってるからそう思うだけかもしれませんが、そのような意見も実はちょこちょこお聞きしました。
 ともあれ、良かった点、悪かった点を含めて、さまざまな感想と感情と印象と議論を巻き起こす作品であったことは間違いなく、そういう意味ではあっさりと流されてしまう軽めのお芝居とは全然違った、何か独特な「思い」も感じられました。地域への思い、男女の思い、過ぎ去り日々への思い、演劇への思い、共に生きる仲間としての相手への思い…。その「思い」はちゃんと客席に伝ったのではないかなと。権利関係などもあり難しいのかもしれませんが、個人的には数年後に、中ホールで再演してくれたらなと思ったりもしています。(2011/6/9)

何にもしない1日 85年分の1日
 6月は3連休もなく、仕事も割と忙しくて、なかなか旅に出にくい月。今月もほっておくとどこにも出掛けないままに終わってしまう…ということで、先週はじめごろ急に調べ始めたのです。船の旅がしたいなあ、高松もいいけどフェリーにお風呂がないしさぬきうどんを回るにしても車がないとしんどいなあとか、大分だとフェリーで豪華客船気分は味わえるし現地で温泉もあるけど少し高いかなあとか、木次線は一回乗ってみたいと思っているけど平日だとオロチ号はないし亀嵩のそばはオロチ号では食べられないしなあ…などとネットで調べていて、ふと思ったのです。確かに調べるのは楽しいのだけど、ネット時代になってから、あまりにも下調べが詳細になってしまっていて、とりあえず行ったら何かあるとか、突然いいお店を発見するとか、そういう楽しみは減ったなと。なんだか、これじゃ、ちょっとつかれちゃうなと。
 ということで先日、ネットで下調べをしすぎないことを一つの課題に、一度は泊まってみたかったものの近すぎてその機会がなかったクラシックホテルの一つ、宝塚ホテルに泊ってみました。1926(大正15)年創業の今年で85年目、私が泊った本館は創業当初の建物。入ってすぐの階段の蹴上げと踏み面も日本の規格とは微妙に違うそうで、そのあたりから嬉しくなってしまいます。そして、今回はビジネスホテル並みの料金で泊ったのですが、さすが関西の名門ホテル。部屋は古いながらも丁寧に補修されており、決して汚らしい感じはしません。所々に散見される細かい装飾も、さすが大正モダニズムです。
 お昼は駅前にあったちょっときれいな和食屋さんに飛び込みで入って、絶品のお料理を日本酒片手に。食事後は、うだうだ寝たり、さすがにここで読み返すべきだろうなと思って持ってきた「阪急電車」や図書館で借りた本を読んだり、ぷらっと散歩して武庫川沿いを歩いたり、1階のビアケラーで生ハムだのソーセージだのを楽しんだり、つらつらとニュースを見たりした程度。昼寝をしすぎて夜寝づらかったぐらいが誤算で、何にもないのんびりとした1日を存分に堪能しました。
 もうすぐ40歳。家庭だのなんだのの制約がほとんどないからかもしれませんが、こんなのもまた「旅」のひとつなのかなと思える年になってきたのかもしれません。(2011/6/11)

私、プロレスの味方ではありませんが。
(ステージタイガー「リング・リング・リング」感想)

 私はあまりプロレスが好きではありません。スポーツを標榜しながらも台本があることが公然と語られる世界に違和感というのもあるのですが、むしろ、お互いに殴りあったり傷つけあったりすることを商業的に反復して行うということに、生理的な嫌悪感を覚えてしまうのです。自分が肉体的に弱いというコンプレックスから来ているのかなとも思うのですが、自らプロレスを見に行ったこともないし、プロレス番組を見ることもまずありません。ということで、「女子プロレス純情物語」と副題のついた今回の「リング・リング・リング」、正直見に行くべきかどうかちょっと悩んんでいたのです。ですが、ステージタイガーさんは「火曜日のゲキジョウ」でとても印象的な熱い芝居を行っていたこと、知り合いの方がスタッフにおられたことなどから、土曜日の13:30の回に見に行ってきました。
 特筆すべきなのが主演の小野愛寿香さん。つかこうへいさんの作品は魅力的なヒロインを中心に回ることが多く、登場人物をそれぞれ描いていく小劇場系演劇とは若干違う特徴があるのですが、そのつか作品のヒロインを見事に勤めていらっしゃいました。彼女自身、決して背が高かったり派手な衣装を着たりしていないのに、話が進むに従って舞台上で彼女が徐々に大きく、立派に見えてくるんですよね。最後の対決シーンのウェディングドレスからレスリングコスチュームへの変化などは、その潔さにほれぼれとしてしまいました。もちろん、他の役者さんたちの絶妙なやりとりや、途中でリングへと変わる簡にして要を得た舞台装置、定番に見えながら結構いろいろな色を混ぜていた照明、アラフォー世代には懐かしい曲の数々とそれに合わせたダンスなど、今回の作品にはさまざまな素晴らしい点があったのですが、でもやはりこの作品はヒロインの小野さんで持っていたんだろうなと。
 ちなみに、このお話、病気で死にゆく娘を残し、女子プロレスという馬鹿にされがちな世界へ、一人、チャンピオンベルトを取りにリングへと向かう…荒唐無稽かつベタなもの。それを、実在の女子プロレスラーである長与千種の名前を使ってやります(つか作品では、長与千種さんが長与千種役をやったそうです)。実際の長与千種さんは子どももいなければ、出身地も長崎で、完全にフィクションの、嘘のお話です。荒唐無稽さはプロレスのアングルに通じるものがあるのかもしれません。でも、嘘は嘘なりに、虚構の世界であったとしても、その中でしっかりと人々は悩み、喜び、哀しみ、生きている。それは嘘ではなく事実だし、人々を感動させることができる。女子プロレスの世界も、演劇の世界も、僕らが生きている日々の日常も、その点は同じなんだ。直接の主題はともあれ、そんなことも人々に訴えたかったのかなと、観ているうちにそんなことを感じたのです。
 この作品を見たり、ロビーでプロテインドリンクを飲んだからといって、急に私が肉体派・プロレス大好きになったりはしないのですが、でも、プロレスの中にも何らかの真実はあって、人々はそれに熱狂するのだろうなと、ちょっとだけ気づいた自分がいます。(2011/6/13)

ぜいたくは素敵だ
 先日、大阪駅に新しくできた大阪ステーションシティに行ってきました。演劇を見るまでにちょっと時間があったので、「話題のスポット」ということで立ち寄ってみたのです。開業から約1カ月、入場制限こそないものの、相変わらず混んでいました。
 しかし、何とも巨大です。ホーム全体を覆う大屋根や、その直下にある広大な「時空の広場」。金と銀の大きな時計。上層階に向けて一直線に伸びていくエレベータ。2011年のトレンド「節電」からすると多少違和感を感じるほどの美しいライティング。エコな雰囲気を全面に打ち出した天空の農園。いままでの大阪駅の雰囲気とはまったく違った空間が忽然と現れました。昔の暗くて汚い大阪駅北口を知っている者からすると、ある意味カルチャーショック。正直、大いなる地方都市・大阪にこれほどのものを作ってしまって大丈夫なのか、この人出はいつまで続くのかなどと危惧しながらも、それはそれでやっぱり巨大な空間や美しい造形には圧倒されるし、心もうきうき。久々にバブル風の建物の魅力を感じさせてくれます。
 お店をちょっと見て回ったところ、売っているものやその価格設定もかなり強気。東京がそのまま大阪にやってきたようです。たとえば、ルクア地下1階にできた「スープストックトーキョー」は、私の東京出向時代のひそかなお気に入りだったのですが、スープ2点にご飯で900円という価格設定が金銭感覚鋭い大阪の女の子たちにどこまで受け入れられるのか。今はトレンドスポットなので良いのでしょうが、さて今後、その新鮮さが失われた時にはどうなるのかなとは思っています。ただ、そんなこんなも含めて、大阪には珍しいぜいたくと洗練さを楽しむ場所として育ってくれると良いなと思ったりもします。
 ショッピング街、あるいは観光地としての側面もある大阪ステーションシティですが、基本はやはり駅。多くの人がやってきて、多くの人が旅立つ場所です。私は神戸在住なのでどれほどそんな機会があるのか分かりませんが、これからこの駅・この場所で人と出会ったり、人と別れたりする機会がきっとあるはず。そんな人々の思い出を刻む場所が新しく誕生したんだなという感慨も。この建物が何年間、何十年間続くのかわかりませんが、多くの人のいろんな期待や思惑や思いや希望をのせて、新しい駅・新しい街が歴史を刻み始めました。(2011/6/15)

播磨の食文化 焼きあなご
 Wikipediaには「○○県の食文化」というカテゴリーがあり、これを旅行前に読んでおくと、意外と役立つものです。わが兵庫県の食文化カテゴリーには「えきそば」「かつめし」「そばめし」「玉子焼き(明石焼き)」「姫路おでん」「ホルモン焼きうどん」などそうそうたるB級グルメが並んでいます。さすが関西初のB1グランプリ開催地にふさわしい陣容といえますが、実はこの兵庫県の播磨地方にはもう一つ独特の食文化ともいえるものがあります。それが「焼きあなご」です。
 焼きあなごというのは単にあなごを串にさし、たれで焼いただけなのですが、これが播磨の海岸部(明石、加古川、高砂、姫路など)では「お使いもの」「贈答品」として非常にポピュラーなのです。そして、それは兵庫県内でも播磨に限られます。家で焼く家庭料理ではなく、料亭で焼きたてを食べるものでもなく、ましては屋台で食べるものでもなく。お使い物としていただいた化粧箱に入った冷めた焼きあなごを、レンジやオーブンでほんのりと温めなおして、穴子丼にしたり、穴子茶づけにしたり、お吸い物に入れたり、そのまま塩を振って日本酒の当てにしたり。来客が帰った後の夕食や朝食、豪勢ではないけれどちょっとぜいたくな、家族だけでゆっくりと味わって食べる、さっぱりとしてそれでいて濃厚な海の幸。お値段的にも使われ方もそしてそのお味もA級グルメなのですが、決して食卓の主役を飾るわけでないないという点でどこかB級グルメの雰囲気もある、不思議な料理というか、文化です。
 ちなみに、こういった焼きあなごの使われ方を知っているのは、ご挨拶だの親族訪問だの、それなりの社会的・家庭的活動(?)を主に播磨で行っていたからで、やっぱり一人暮らしとか実家にパラサイトとかだと分かんないことも色々あるのだなあと、ちょっとだけ過去を振り返ってしまったりもするのです(苦笑)。(2011/6/17)

高品質で、高品質で、高品質な舞台(青年団「革命日記」感想1)
 今日は、終日、屋外で大工仕事の予定。ところが、天気予報とは違って雨がちの1日。テレビ、ラジオ、新聞、インターネット、気象レーダー、アメダス、兵庫県防災情報、ヤフーのみんなで実況、日本気象協会、ウエザーニュース、鳥のさえずり、虫の動き、気温の変化、占い、祈祷などを駆使して(うそうそ)、昼から一時、天気が回復することを予測。その短い時間にペンキ塗りを合わせたことにより、なんとか予定どおりの道具が完成しました。ということで、安心して、伊丹市はアイホールで行われている青年団「革命日記」へ。
 会場に入ると、眼の前にはもう舞台があり、役者さんが3人います。ちょっとだけトレンディ―(死語)なマンションの一室のような感じ。大きなクッションに寝転んだり、ソファーに横たわったり、だらだらしています。時折お互い、聞こえない程度の声でやり取りをしたり。実に自然です。
 そして、升目状になった巨大な棚には、アフリカのお面だの、エッフェル塔だのおびただしい数の世界各国のお土産品と古めかしい本の数々。そして、何よりも印象的なのが「赤」。上手側には大きな若干暗めの赤い壁が直立しており、基本的には薄い木目調のベージュの棚の所々が赤く塗られています。下手側の棚の中には、赤色のいくつものエレメントがくっついた、モービルのような造形。中央の棚には、赤いマトリューシュカが照明を受けて光っています。この作品の主題は「個と集団」だそうですが(とリーフレットにある)、一見組織化された集団の中で、静かにうごめいている人々の情念のようなものを象徴しているのかなと思いました。
 そして、これを生かしているのが、控えめな照明。ほぼ全てのライトがホワイト(色フィルターを入れていない状態)なのですが、上下の出ハケ部分や下手側棚の一番上の部分など、ほんの一部分のみをかすかに青色や緑色で照らしているのです。それが、端正でトレンディ―で規則的なこの部屋に、微妙な違和感と不安感を与えます。劇中に大きな照明変化はなく、決して強引さや華麗さはないものの、舞台美術の意図や作品の趣旨を実によく捉えた舞台照明でした。
 そして、役者さんの演技は、さすが超一流。どの方も出てきたときの存在感が半端でない一方で、その場での会話に全く嘘がありません。お客さんにお尻を向ける方向で会話が進む場面も多々あったのですが、それすら全く違和感を感じさせないのです。あまりにも高品質のセリフのやり取りで、「演劇の教科書的な何か」を感じてしまわなくもなかったのですが、慣れるにしたがって気にならなくなり、徐々に話の中身に取り込まれていきました。
 作品の内容については次回に回しますが、ちなみに、今回のこの作品の入場料、たったの3,000円でした。高品質な役者、高品質な台本、高品質な舞台美術、高品質な照明。正直、安すぎる気もします。7,000円ぐらいとっても文句が出ないのでは。ともあれ、この値段でこれだけのお芝居を見ることができる、こんなこともあるので、なかなか劇場めぐりはやめられないのです。(2011/6/19)

永久革命とセックスと(青年団「革命日記」感想2)
 この作品、「個と集団」の問題を描いたとリーフレットにあります。オウム事件を機に、集団のあり方を考えようとしたのだそうです。確かにその通りはその通りです。ただ、事前にリーフレットを読んでいなかった自分には、個人の中での「理想・理念・理論」と「日常生活」との軋轢に焦点が当てられているように思えたのです。
 何らかの夢だの希望だの理想だの理念だのを持って、それを実現するために日々の生活を送る。とっても素晴らしいことだと思いますし、現に、役者になって身を立てようとか、政治家になって社会を変えようとか、自分で起業してこの世の中に一石を投じたいとか、教師になって次の世代の若い人々を育てたいとか、高い志を持って自分の人生のほぼすべてをそれを捧げている、そういう人は私の周囲にもたくさんいます。思えば、警察官や消防士、あるいは自衛隊員や医師・看護師など、時には自分の命を犠牲にしてまで何かを守ることを宿命づけられている職業すらあります。
 その一方で、現代は「ワークライフバランス」の時代。仕事だけに没頭し、仕事に殉じることを決して良しとしない価値観は、明らかに市民権を得ました。家庭を顧みることなく仕事に打ち込むサラリーマンや刑事、官僚や教師などというのは、いまや称賛の対象ではなく、むしろ蔑視の対象。家族、特に奥さんから見れば夫や父親失格で、時として離婚の原因にすらなってしまいます。何事も程度問題というのは確かに事実。でも理念、理想と生活との間の葛藤というのは、近年、どんどん大きくなってきているような気がしているのです。
 この劇の登場人物は、「革命」という、この日本ではまず成功しないであろう理想を追い続けています。結婚という最もプライベートに属する事柄ですら、その理想を追い求めるための手段として活用しようとしています。しかし、そんな手段としての結婚や同居であっても、そこには近所との付き合いや家族との関係性や、恋愛感情やセックスや、その他もろもろものいわゆる雑事がどんどん顔を出してきます。その最たるものが、セックスの結果として生じる、理想や理念では測り知ることのできない子どもであり、その子どもに対する愛情であったりするわけです。そんなもろもろの雑事に翻弄されるのは人間としてあたりまえのことなのだけれど、それは「革命」を遂行するため革命化・武装化した日常とは明らかに異質なもの。それをどう整理づけていくのか。この作品では元革命家の晴美・英夫、そして表面的にのみ時代変化に合わせようとするリーダー佐々木を出すことによって、逆に「整理なんて付かない」と強烈に主張しているようにも思えたのです。そして、その「整理なんて付かない中を生きていかざるをえないのが現代」ということなのかもしれません。
 平田オリザ作品は「静かな演劇」の代表格であり、この作品も基本的には静かに、淡々と進みます。そんな中で典子と立花さんが叫ぶように語る、「それは早く帰って桜井とセックスがしたいということですか」「そうです」という緊迫したやり取り。他の場面とは明らかに異質なあのシーンこそが、革命日記の「日記」たる所以なのかもしれません。(2011/6/21)

ラストシーンのことなど(伊藤えん魔プロデュース「蒲田行進曲」感想)
 ツイッターが便利だなあと思う事の一つが、結構リアルタイムにお芝居の感想が見えること。この「蒲田行進曲」、ツイッター上の評判があまりにも良かったことから、多少無理して月曜日の夜、千秋楽を見に行ってしまいました。
 「蒲田行進曲」。「熱海殺人事件」と並ぶつかこうへいの代表作の一つ。多くの人にとって最も有名なつか作品ではないでしょうか。小説は直木賞を取りましたし、映画も大ヒットだったそうです。ちなみに私自身も、まだ演劇なんぞにほとんど興味のなかった大昔に映画だけは観たことがあります。今回見に行ったのも、演劇に携わっている以上、さすがに一度は観ておくべきだろうというのもありました。同じ思いの人が多かったのか、会場にはかなり様々な年齢層の人々が。男性も多かったです。常設の客席に加え、パイプ椅子は当然のこと、地べたに座布団を並べてまでの超満員、こんな小劇場久しぶりに見ました。(定点風景最終話も多かったですけど、もともとのキャパが全然違うので…。)
 作品は流石というか、話の流れがほとんど分かっていてもぐいぐいと引きこまれていきます。基本的には、ヤス、小夏、銀ちゃんの3人の関係を中心にして動いていくのですが、橘、監督、母など、周囲の人々もそれぞれが実に個性的。良い脚本に良い役者さんがあたると、どんどん良い作品になっていくのだろうなということを実感させられました。一方、ムービングライトを多用した照明や、時として役者さんの声が聞き取れなかった音響は、個人的には若干残念だったかなと。千秋楽だからどかどかやったのかもしれませんけどね。
 今回勉強になったというか初めて知ったことの一つに、このつかこうへい「蒲田行進曲」が蒲田の話ではない、ということがあります。蒲田のある東京都大田区(旧大森区+旧蒲田区)は父母の生まれ育った場所であり、私の生まれた街であり、いまも親戚が数多く住んでいる街でもあります。てっきりその「蒲田」の話かと思いきや、京都の撮影所が舞台でした。「蒲田行進曲」という歌(松竹キネマ蒲田撮影所の所歌)を題材にしているから「蒲田行進曲」となったようなのです。ここで使われている「蒲田」は実在の地名というよりはむしろ、かりそめで幻で夢の「キネマの天地」を象徴しているのでしょう。
 今回の演劇のラストシーン、あまりにも有名な映画のラストシーンを彷彿とさせる作りになっていました。気になって戯曲と小説を取り寄せてみたのですが、少なくともダイレクトにああいうラストシーンではなかったので、伊藤えん魔氏は映画版での解釈をあえて演劇に持ち込んだのでしょう。映画も演劇も、かりそめで幻で夢の世界。あんな奇妙な三角関係(?)だの、決死のスタントだのは、現実の世界にはまずないでしょう。「これは作り話だよね」とほっとしながらも、そこで悩んだり傷ついたり笑ったり怒ったり泣いたり生きたりしていることが掛け替えのない真実として観客の胸に飛び込んでくるあのラストシーン。戯曲、小説ときて、最後の映画台本でつかこうへい氏がたどり着いたその境地。伊藤えん魔氏はたどりついたのかなと、少し考えてしまったのです。(2011/6/23)

いよいよ始動。
(El camino a Bolivia 〜ボリビアへの道1〜)

 近年最大の、というよりは多分社会人時代最大の旅になるであろう、世界一周+南米ペルー・ボリビアの旅。とうとう、上司にも言ってしまいました。昨年度半ばから少しずつ話はしていたのですが、具体的に日程を決めて話すのは今回が初めて。ちょっとだけ緊張しましたが、去年から言っていたこともあって許してもらえそうです。さすがにこれだけの期間になると「なるべく迷惑をかけずに」というのは無理なわけで大変申し訳ないと思いつつも、いろんなひとに迷惑をかける経験というのもまた大切な経験なのかなと思ったりもしています。
 現時点でのスケジュールとしては、10月1日(土)に日本をたち、ソウルから世界一周チケットを使用開始。ソウル〜フランクフルトorロンドン〜サンパウロ〜リマと一気にペルー入り。ペルー内はリマ→クスコ→マチュピチュ→クスコ→プーノと移動し、チチカカ湖を越えて、陸路ボリビアへ。首都ラパスからオルーロ→ウユニ→ポトシ→スクレと観光して回って、スクレからは一気に飛行機でラパス→リマと戻り、世界一周チケット再開。リマ〜ヒューストン〜サンフランシスコ〜東京〜大阪と10月22日(土)に帰国。これまでの人生の中でも一番長い旅行になります。(ちなみに世界一周チケットを最大限利用するため、年末年始に、これも行ったことのないオセアニアに行こうかなと(そのため、世界一周はソウル発着。日本にストップオーバーします)。スターアライアンスの関係でニュージーランド拠点になるのですが、オーストラリアに行くのかとかシンガポールストップオーバーするのかとか、そのあたりはまだまだ悩み中です。)
 これだけの距離になるとさすがにエコノミーでは厳しい部分もあるので、今回は奮発してビジネスで行こうかなと。エコノミーの2倍弱というのは、飛行機の常識から言うと実はかなりお得なのですが、そうは言っても100万円前後。現地での宿泊費や移動費を考えると、総費用としてはおそらく倍ぐらいはかかるかなと思います。ボーナス4回分弱、人生の中でかなり大きな買い物になることは間違いありません。でも、お金で買えない何かがきっとある気がします。
 このルート、特にペルーとボリビアについては数年前から練りに練っていたのですが、いざ実際に行くことになって調べてみると、出入国手続き・現地での移動手段・治安・健康(高山病とか)・気候など、これまでのディスティネーションとは全くレベルの違う困難さが多々押し寄せてきます。そんな困難さも楽しみながら、ああでもないこうでもないと楽しく調べていく夏の日が続きます。(2011/6/25)

熱中しすぎ
(El camino a Bolivia 〜ボリビアへの道2〜)

 27日は奇数日なので、「2日に1回日記」の日。週末に見てきたボラ☆ボラ「青木さんちの奥さん1/2」かピッコロ劇団オフシアター「セイムタイム、ネクストイヤー」の感想を書こうと思っていたのですが、なんとすっかり忘れていました。
 その元凶は、Book & Fly。 インターネット上で簡単に世界一周旅行のプランニング&購入ができてしまうのです。去年ぐらいから何度も試しでやってはいたのですが、いざ行こうとすると色々と悩んだり、また調べたりしてしまうもの。今回はオールビジネスクラスなのですが、どうもビジネスクラスというのは会社や機種(路線)によってぜんぜんレベルが違うらしいので、いろんな人のブログや評価を参考にもう一度やり直してみたり。何時間あってもあっという間に過ぎてしまいます。サマータイムだというのに、正直、連日、寝不足気味です。
 10月南米の方はほぼ固まりましたが、決まらないのが年末年始のニュージーランド・シドニーの方。しかし、さすがに年末年始、昨日は空席があったのにもう満席になってしまったという便もあり、そろそろ思いきらないといけないかもしれません。100万円以上のものをネットで購入するのは初めての経験。限度額を確かめたところ何とか行けるので、多分今週中に「ぽちっ」とする予定です。(2011/6/27)

夏空と透明な氷によせて。
(ボラ☆ボラ「青木さん家の奥さん1/2(はーふ)」感想)

 ピッコロでお世話になった藤川央子さんと永易健介(ゲバ男)さんが出演しているということで、金曜日の初日を見てきました。職場がサマータイムのため、開演の1時間前にウィングフィールドへ。席はさじき風。超大入りということで「ちょっと下手側に詰めてください」という言葉を久々に聞きました。往年の小劇場の熱気を取り戻しつつ、藤川さんの「春風によせて」で舞台が始まりました。
 さてこの作品、真面目に捉えるのか、エンターテイメントとして捉えるのかで、かなり感想で書くことも違ってきてしまいます。そして、そのどちらもなかなか良かったのです。あえて言うと、そのつなぎがなかなか難しく厳しい部分があるのですが、そこもレベルの高い女優陣で強引に持って行ったなあと。その強引さもまた気持ち良かったりするのです。特に剣道をやっていた真面目な新入りホステス役をやっていた倉重みゆきさんが、本当に役柄に合っていました。彼女は南河内の舞台でも何度かお見かけしたのですが、かなり独特な魅力を持っており(洗濯機にずっと入っていた役が印象的)、それが今回の舞台上でも炸裂した気がします。あとは、あまりに衝撃的な登場だった吉井希さんでしょうか。彼女は南河内の役者さんではないのですが、どこかでお見かけしたような…。他の方々も実に芸達者かつ存在に力があって、それがともすれば分裂・分解しかねない難しい作品をなんとかまとめきっていたのかなあと思います。ラストシーンの女優横一列、決して華麗ではないのだけども、圧倒的な存在感のあるあのシーン、圧巻でした。
 笑いだの話の筋だのに多少の内輪感もあるものの、2年間ピッコロに通ってそれなりに南河内にもなじみがある立場としては結構楽しめたかなと。逆に全く知らなければ知らないなりに楽しめる部分もあるのかもしれません。あるいは即興部分はダメでもシリアス部分が心に響く人もいるでしょうし。そういう意味では1公演で何度もおいしいグリコ風ともいえますし、ちょっと盛り込みすぎだったのかなという気がしなくもないです。公演時間も途中、若干の長さを感じました。というか、この年になると2時間桟敷でギツギツだとお尻がきつい…。ついついもじもじしてしまって隣の友人にご迷惑をおかけしたかもしれません。ごめんね。
 ともあれ、どこにあっても目を引くパンフレット、見事に化けた女優陣、出演者が直接受けてくれる先行予約、華麗なる日替わりボーイズと、舞台本体以外でも楽しませてくれた「ボラ☆ボラ」が終わってしまった自体が、少しさびしいような。ブログやツイッターで結構追わせていただいていましたし。この公演、「梅雨明け公演」と銘打たれていたのですが、確かに季節は巡り時は過ぎているのだなあと。かすかな夏の空気をどこかに感じながら、神戸へ戻ったのです。(2011/6/29)



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