第五の謎

なぜ、文系は軽視されているのか?


 ところであなたはオランダの首都を知っているであろうか?多分あなたは「アムステルダム」と答えるだろう。確かにその通りなのだが、実は行政の中心や国会はアムステルダムではなく、「ハーグ」という町にある(国際司法裁判所で有名ですね)。アムステルダムにあるのは国王のいる王宮なのである。すなわち、首都と言うときに重要なのは行政でもなく国会でもなく、元首の行方なのである。
 天皇が日本の元首であるかどうかはとりあえずおいておくにしても、首都機能移転の際、天皇を東京にほってくるわけにも行かない。国民の象徴が捕虜となってしまっては、国民全体が捕虜になったようなものである。有事の際に天皇とその一家をうまく「移転」させる必要があるのは言うまでもないだろう。
 この代理皇居をどのように用意するかは、首都機能代行都市建設の中でも大きな問題であった。それなりに大きな建物で、かといって目立ちすぎてはならず、あまり目立たないほど狭くても困り、かといって平時に全く使えないような施設でも税金の無駄遣いとの批判がでるだろう。そこで白羽の矢を立てられたのが、「大きな建物を持ち」「自家発電装置や病院なども持ち」「さらに農場まで持ち」「大量に調理できる食堂も持ち」「いざとなったら追い払うことのできる人たちの多い」大学であった。

 しかし、いきなり新しい大学を作るのは世間の注目を集めすぎるし、何しろお金がかかる。石油ショック前の高度経済成長期とはいえ、さすがに新たに総合大学を一個作るような余裕はなかった。そこで、昔から国策に流されてきた大学、東京教育大学に白羽の矢を立てたのである。
 東京教育大学は、その歴史をさかのぼると明治4年の「師範学校」にまで行き着く。そののち、東京師範学校、高等師範学校、東京高等師範学校、東京文理科大学、東京教育大学と、時の政府の意向にあわせてその名前と役割を替えてきた。さらにこれらの学校は単に教師の養成のみならず、洋学中心だった帝大に対抗して和漢学の研究も行っていたという、国粋主義色の強い学校でもあった。戦後になると、多くの教え子達を誤った考え方のもと戦場に送ってしまったという反省から、東京教育大は若干左翼色のある大学となるになったものの、師範学校から続く国粋主義の流れは確実にくすぶっていた。国は、それを利用したのである。
 筑波への移転はもめにもめた。筑波大学の沿革にはさっと触れられているだけであるが、実際はバリケードが築かれたり、団交が行われたり、つるし上げがあったりと非常に混乱した。しかし、この混乱も実はある程度計画されたものだったのである。つまり、「どいつが敵で、どいつが見方か」を選別する役割があったのである。筑波移転に賛成しないような教官や学生は、首都代行都市の住民としては全くもってふさわしくないのである。どの人物ならば大丈夫か、あるいはどのような分野の人間ならば大丈夫かを、東京教育大学の紛争をリトマス試験紙のようにして選別したのである。

 筑波移転に非常に賛成したのは体育学部である。また理学部もかなり賛成であった。彼らはある意味で政治的には人畜無害である。首都代行都市の中核をなす人々としてふさわしいと判断された。そのため、筑波には理学系の研究所が多く立地された。さらに、スポーツというのは政治的な不満を解消させる効用もあるため、学内のみならずつくば市の至る所に体育施設を設けた。
 農学部は基本的には賛成であった。農学系にも非常に広い建物と広い農場が恩恵として与えられた。しかしながら、筑波研究学園都市の建設は地元の農民の犠牲のもとにできたとして反対する声も根強かった。さらに農学系の人間は「耕す体専」ともいわれるように、その体力は決して過小評価できない。つまり若干の危険性もあったわけである。そこで筑波大学の中でも最も北のはじに追いやると同時に、国立の農学系の研究所は筑波研究学園都市の南のはじに追いやったのである。つまり、両者が手を組めないように、また筑波の中心街で暴れないように細心の注意を払ったのである。
 東京教育大学の看板学部でもあった教育学部は多少、複雑な経緯をたどる。もともとは反対であったのだが、情勢は筑波移転とみるや条件闘争に入り、最終的には東京教育大学閉学の後始末まで見るのである。このあたりのバランス感覚と情勢判断の良さはさすがに教育学や心理学をやっている人々であった。教育学部はご褒美として東京大塚地区の土地を確保することが許され(本来は筑波移転後、国に返されるはずであった)、またそれなりに大きな建物を大学の中心に与えられた。考えるに教育系の人々は、教育の力で若者を戦場に送り出したり、あるいは敵に対して心理作戦を用いるなど、使いようによっては首都機能代行都市にふさわしい人々ともいえるのである。逆に言えば、敵に回られてしまうと内部崩壊を起こしかねない。さらに、大学全体としてあまり文系を軽視することもできないので、それなりに厚遇しておくことにしたのである。
 最も強硬に、最後まで反対したのが文学部である。教科書裁判で有名な家永三郎氏ももともとは東京教育大学文学部の教授であった。このようにかなり左派色がつよく、国の意向で作られた筑波大学には最後まで反対した。そのため、彼らには筑波首都代行都市の住民としては「危険分子」のレッテルが貼られたのである。文学部系統は非常に軽視され、理系の潤沢な研究費に比べ研究費も少なく、文系にとっては非常に重要な図書や雑誌もすべて中央図書館に行かなくては使えないようにしてしまった。さらに、建物を丸ごと占拠するのが難しいように大きな建物に様々な領域を雑居させ、あまり人の交流がないようにそれぞれのフロアを小さくしたのである。交流が少なければ、みんなで共謀して暴れることもあるまいという思惑である。ともあれ、師範学校以来の伝統のあった文系の多くの学科が、人員的にも予算的にも縮小を余儀なくされたのである。

 結局、東京教育大学は閉学し、全学部が形を変えて筑波に移ってきた。しかし、移ってきたときには、もうそれぞれの立場が歴然としていたのである。そして、その理系重視・文系軽視の流れは国や文部省もバックアップをしていた。理系には巨大で高価な実験機器が購入され、センターなどもどんどん作られたのに対し、文系にはなんの恩恵も与えられなかった。さらに国立の研究所もいわゆる文系的なものは何一つ移転してこず、文系の人間にとって筑波にいるメリットはなにもなかった。優秀な文系の研究者はどんどん筑波から逃げてゆき、ますます筑波大の文系は弱くなっていった。それを見て、「危険分子」が減ったと喜んできた人もいたのはいうまでもない......。

 


 

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これはフィクションです。おそらくフィクションだと思うのですが...。
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